【伝承地めぐり】

六所神社

富士川合戦に勝利した源頼朝は治承四年十月二十三日、相模国府に兵を引き、それまでの勲功に対する恩賞を宛て行いました。この時宿泊したのは……

【京と吾妻鏡】

平清盛と北条時政の京

平家が長らく京の拠点とした六波羅は、清盛の祖父正盛が築いたとされます。その領域は鴨川の東側、南北は五条大路から六条大路までの広大な土地です。河内源氏の居館である六条堀河邸は一町四方であるのに対し、六波羅は一坊(十六町)ほどですから、段違いのスケールです……

【京と吾妻鏡】

後白河法皇の遍歴

吾妻鏡の語る源平争乱で重要な役割を演じるのは、「和漢比類なき暗主なり」と側近の信西に手厳しく批判された後白河でした。武者の世が到来して政情が激しく揺れ動く中、治天の君として存分に世の中を引っかき回し、後世の歴史愛好家に数え切れないほどの研究ネタを提供してくれた後白…………

【京と吾妻鏡】

河内源氏の設けた京の活動拠点

河内源氏の始祖と言われる頼信の子頼義は、平安京の六条大路南に左女牛亭なる居館を持ち、家向こうに後冷泉天皇の勅を奉じて六条若宮(左女牛八幡)を創建したと伝えられます……

【京と吾妻鏡】

源三位頼政の足跡

『吾妻鏡』は平清盛政権の転覆を謀るクーデター計画の密談場面で幕を開けます。場所は平安京の三条大路北と東洞院大路の交わるあたり。現在は地下鉄烏丸線の烏丸御池駅からすぐ東側、中京郵便局の敷地に『平安京東洞院大路・曇華院史跡』の案内板が立ち……

【鎌倉武将と小坪】

頼家と小坪の殿

小坂光頼と小坪を結びつける鍵となった、頼家と信濃武士との関係が見えてきました。頼家は舅である能員の地位や人脈を利用して、幕府重臣たちとは関係の薄い信濃出身者を側近に登用したのです。そうした流れの中で……

【鎌倉武将と小坪】

二代将軍頼家と信濃源氏

源平争乱期、信濃源氏は木曽義仲の挙兵に呼応し、井上光盛は横田河原の合戦で平家方の越後国城氏を撃退した主力となるなど、同門ながら頼朝とは一定の距離をとって活動しました。では、どのようなきっかけで小坂光頼は鎌倉殿に仕えるようになったのでしょうか……

【鎌倉武将と小坪】

小坪の殿

小坪漁港から披露山へ向かう狭い坂道の途中にある「殿の井」は、「将軍たちを愉しませた小坪海岸」でも紹介したように、土地の人から親しみを込めて「とんのい」と呼ばれています。この井戸に向かって左手の民家裏にひっそり佇む小坂天王社という神社は……

【鎌倉武将と小坪】

小坪は鎌倉の南境だった

鶴岡八幡宮の長い石段を登り切って振り返れば、若宮大路が由比ヶ浜に向かって一直線に伸びる鎌倉の中心街を一望できます。この景観を見た人なら、鶴岡八幡宮は鎌倉の北端で、若宮大路が相模湾に出会う滑川交差点が南端と思うのも無理はありません。ところが……

【鎌倉武将と小坪】

将軍たちを愉しませた小坪海岸

鎌倉の地に武家政権を樹立した源頼朝は、文治五年に奥州藤原氏を滅ぼして日本国内の対抗勢力を一掃します。翌建久元年には伊豆に配流されて以降初めて上洛し、後白河法皇をはじめとした朝廷重鎮たちと相次いで面談し……