無二の忠節を示す時政の誕生
平安末期の東海道は伊豆国府のあった三島周辺は通らず、西方の黄瀬川に沿って北上し、足柄峠を越えて相模国に到りました。頼朝軍の駐留した地点は比定できませんが、黄瀬川西部の静岡県沼津市大岡周辺だったと思われます………
平安末期の東海道は伊豆国府のあった三島周辺は通らず、西方の黄瀬川に沿って北上し、足柄峠を越えて相模国に到りました。頼朝軍の駐留した地点は比定できませんが、黄瀬川西部の静岡県沼津市大岡周辺だったと思われます………
『吾妻鏡』の十月二十一日条は、富士川合戦勝利後の軍事行動について、頼朝と家臣たちの間で交わされたやり取りを記します………
橘遠茂は十月十四日、駿河・遠江の国衙兵から成る大軍を率い、富士宮から富士山西側を南北に貫く神野・春日路を北へ進軍します。迎え討つ甲斐源氏軍は鉢田のあたりで敵と遭遇し、合戦に及びました………
時政が甲斐源氏の軍勢と共に宿営していた石和御厨へ、土屋宗遠が頼朝軍の最新状況を携えて九月二十四日に到着します。頼朝の託した命令について『吾妻鏡』の正史に従えば……
頼朝が上総広常、千葉常胤ら三万余騎の兵を率いて武蔵国に渡った十月二日は、関東の平野部でも紅葉が始まっていたと思われます……