伝承地めぐり

本サイトの連載記事「深読み吾妻鏡」に出てくる伝承地を写真と文で紹介します。いずれも実際に現地を取材した上、Google マップを掲載していますので、現地へ足を運ぶ際に活用ください。

上総国の一宮である玉前神社(現、千葉県長生郡一宮町一宮)は、上総広常の領地である上総国埴生郡玉前荘にありました……

安房国へ渡った頼朝軍が向かったとされる上総権介広常の居館は、上総一宮である玉前神社の南方に位置する低山に築かれた高藤城だったとの伝承があります……

怒田城は三浦党の本拠地である衣笠城の支城として、平作川を見下ろす丘陵地に築かれました。築城当時、久里浜の海岸線はこの辺りまで及ぶ深い入り江で、支城の中で最も海に近い城でした……

石橋山合戦に敗れた頼朝軍は土肥郷へ逃れ、ここから二手に分かれて安房国へ渡航します。先発した北条時政・義時、岡崎義実、近藤七国平らは岩浦から出航し、頼朝は土肥実平に伴われ真鶴崎から小舟で安房国を目指しました……

石橋山合戦に敗れた頼朝軍は、箱根山中に身を隠した後、土肥郷から船で安房国へと脱出します。『吾妻鏡』は北条時政・義時、岡崎義実、近藤七国平らが土肥郷岩浦から出航したと記します……

上野国の新田荘を根本所領とした新田義重は、源頼朝が挙兵に先だって同盟を促す書状を送ったところ、返事をしないどころか、かえって寺尾城に立て籠もり軍兵を集めたと『吾妻鏡』に記されます……

土肥実平は相模国南西部を支配した桓武平氏中村党の武将で、源頼朝の挙兵当初から付き従った重臣です。所領の土肥郷は、現在の神奈川県足柄下郡湯河原町から真鶴町とされます……

渋谷重国は桓武平氏秩父氏の武将で、武蔵国荏原郡から相模国高座郡渋谷荘までを所領とします。源頼朝が挙兵した当初は大庭景親の催促に応じ、平家方として石橋山合戦に参軍しました……

相模国で有数の勢力を有した三浦党は、衣笠城を居館とする三浦大介義明を棟梁に、近隣の佐原、和田、大多和、多々良など、三浦半島一円に一族の領地が点在します……

治承四年八月二十四日、三浦党の軍勢は伊豆国で挙兵した頼朝軍に加わるため丸子川(現、酒匂川)まで進軍しましたが、昨夜からの大雨で渡河できずにいたところ、朝になって合戦は源氏方敗北と知らされ三浦の地へ引き返す途中……