命運を分けた鉢田合戦

橘遠茂は十月十四日、駿河・遠江の国衙兵から成る大軍を率い、富士宮から富士山西側を南北に貫く神野・春田路を北へ進軍します。迎え討つ甲斐源氏軍は鉢田のあたりで敵と遭遇し、合戦に及びました。鉢田の比定地は、本栖湖の南で甲斐と駿河の国境だった端足峠とされます(海老沼慎治、『甲斐源氏』)。

鉢田合戦は甲斐源氏の大勝利に帰し、遠茂軍は指揮官とおぼしき長田入道父子ら多くの兵が討ち取られ、遠茂は生け捕られました。この結果、甲斐源氏軍は富士川河口東岸(現、静岡県富士市)あたりを制圧したと思われます。

京を発った平家軍は途中で国衙兵を徴発しながら、鉢田合戦の前日に駿河国手越駅に到着したとされますから、遠茂は甲斐国へ向けた出陣をあと二、三日遅らせていれば、源平直接対決の直前に貴重な兵力を損失させずにすんだのですが、もう取り返しは付きません。

鎌倉に駐留する頼朝軍が出陣したのは、鉢田合戦から二日後の十六日で、黄瀬川に到着したのは十八日夜です。この時の模様を『吾妻鏡』は次のように伝えます。

来る二十四日をもって、合戦の日と定められた。そうしたところ甲斐源氏・信濃源氏・北条殿(時政)が二万騎の軍勢を率い、あらかじめの約束によってこの場所で合流された。

多くの研究者が指摘するように、この後に戦われた富士川合戦で平家軍と直接対峙したのは甲斐源氏であり、彼らは黄瀬川に参上して頼朝に謁見しておらず、まして頼朝の指揮下にあったわけでもありません。甲斐源氏はあくまでも独立した軍事組織として主体的に平家軍を迎え討つ気でいたのです。

富士川合戦と称される軍事衝突は、周知のように、源氏の大軍を前にした平家軍から落伍者が続出し、本格的な戦闘もないまま平家軍は京へ逃げ帰り、源氏軍の大勝利となりました。頼朝軍は黄瀬川から動かないうちに終戦を迎えたと考えられます。

おそらく黄瀬川の頼朝軍に合流したのは、北条時政、加藤太光員、加藤次景兼のみだったでしょう。時政はそこで想像をはるかに上回る大軍勢が頼朝の御家人として従うのを目にし、指揮官の座を婿殿に移譲せざるを得ないと悟ったはずです。河内源氏嫡流にして、従五位下、前左兵衛佐という官位官職を帯びる貴種が在地武士に及ぼす絶大な影響力には抗す術はありませんから、時政はこれ以降、頼朝の家人の地位に甘んじて生きるのですが、大将の舅という他の武将より一段有利な立場を利用できることに不満があったとは思えません。

時政の内心に、いつの日か源氏軍の指揮官に返り咲きたいという願望が消しがたく残っていたのかもしれませんが、少なくとも頼朝が存命中はそうした野心はおくびにも出さずに過ごしたのは確かです。時政に課せられた喫緊の課題は以仁王の乱で散った仲綱の遺志を継ぎ、伊豆の領地を圧迫する平家勢力討ち滅ぼし所領を保全することでしたから、それを実現してくれるのなら大将は自身でなくてもよかったはずです。

平家軍の敗走から一夜明けた二十一日、頼朝と家人の間で一悶着もち上がります。

(公開日:2024-03-17)