失敗に終わった以仁王の乱

有綱を指揮官として平家打倒計画を着々と進めていた伊豆国では、待望の令旨が東国にもたらされたことで準備は最終段階を迎え、挙兵時期の設定や武将たちの進軍ルート確定といった詰めの作業入ろうとする矢先でした。

以仁王もちひとおうが東国へ向けて令旨を下したことは、行家の本拠地熊野にあって平家と関係の深い湛増により、清盛に通報されます(密告者については諸説あるようですが)。乱の鎮圧に当たったのは六波羅邸に在京中の嫡子宗盛で、清盛は福原で推移を見守っていたとされます。

宗盛が動いたのは五月十五日、以仁王を土佐国へ配流する宣旨を出し、身柄を確保するための兵を三条高倉邸へ派遣しますが、頼政からの急報を受けた以仁王は三井寺(滋賀県大津市の園城寺)へ逃れます。

この時点では、行家はまだ甲斐、信濃に令旨を触れ回っている段階ですので、逃亡中の以仁王へ東国から援軍を派遣できる状況ではありません。頼政は仲綱、養子の兼綱らわずか五十余騎を率いて三井寺へ駆けつけます(『山塊記』)。

三井寺の大衆は山門(滋賀県大津市の延暦寺)にも決起を促しますが、平素より対立する両寺の関係を利用した平家は山門の切り崩しに成功します。そして平家軍と山門の大衆による三井寺攻撃が現実味を帯び、三井寺内にも造反者が現れるに及ぶと、以仁王と頼政らは二十五日夜、協力を約束する南都(奈良県奈良市の興福寺)への脱出を敢行しました。翌二十六日早朝にこの動きをつかんだ平家軍はただちに追撃を開始します。宇治川の合戦で頼政、仲綱、兼綱は討たれ、以仁王も綺田かばた(京都府木津川市)の光明山寺で最期を遂げました。

令旨を受け取ってからわずかひと月、友軍の組織も固まらないうちに以仁王の乱が鎮圧されてしまった後の伊豆国反乱軍は、想定外の事態に混乱を極めたでしょう。乱の首謀者だった仲綱を失い、東国源氏連合軍に決起を促した以仁王もこの世にいません。平家打倒計画は断念せざるを得ないという空気に支配されていたのではないでしょうか。

この間、平家は以仁王をかくまった罪により三井寺を焼き討ちし、六月二日には福原遷都を強行するなど、乱後の体制立て直しに向けて慌ただしく動き、令旨を受け取った源氏はすべて追討するという強硬な指令を下します。

この知らせが伊豆国にもたらされたのは六月十九日、頼朝の隠れ支援者、三善康信の使者だったことは前述しました。伊豆国司令長官の有綱は、たいへん難しい判断を迫られます。

(公開日:2023-06-11)