平清盛と北条時政の京

平家が長らく京の拠点とした六波羅は、清盛の祖父正盛が築いたとされます。その領域は鴨川の東側、南北は五条大路から六条大路までの広大な土地です。河内源氏の居館である六条堀河邸は一町四方であるのに対し、六波羅は一坊(十六町)ほどですから、段違いのスケールです。もっとも、六波羅周辺は葬送の地である鳥辺野に近く貴族の住まない辺境の地でしたから、好きなだけ広い領地を確保できたのでしょう(図3参照)。

正盛は院政を行った白河法皇に仕え、破格の立身をつかみました。白河院は鴨川を越えた東山白河に多くの寺院を建立し、六勝寺と称される王家の私的な宗教空間を設けたほか、洛南に遊興の地である鳥羽殿を築きました。洛外に新たな衛星都市を築くのは、それだけ京が首都として拡大していた証でしょう。正盛はこうした時代の流れに沿って六波羅に拠点を築いたと考えられます。

官職の最高位である太政大臣に上り詰める前半生を六波羅で暮らした清盛は、仁安三年(一一六八)に大病を得て出家した翌年、摂津国大輪田泊に近い福原の山荘(現在の神戸市兵庫区湊山町)へ引き移り、政治の表舞台から引退します。

福原山荘の想定地(平野展望公園より)

しかし、これは表面上のことに過ぎず、実際は福原から一族や近臣者たちに指令を送る遠隔政治で強い影響力を維持し続けます。そして必要な時には京へ上りますが、その際の居所は正室時子の住まいだった西八条第でした。現在の梅小路公園からJR東海道線にかかる一帯で、六町の範囲に複数の平家の邸が建ち並んでいました。

西八条第跡(地図

清盛と共に六波羅泉殿に暮らしていた時子は、清盛の福原移住に同行せず、京に残り別居生活を始めます。娘であり高倉天皇の中宮となった徳子を後見する意味もあったでしょうが、中流貴族の子女として生まれた時子は、住み慣れた京を離れるのは嫌だったのかもしれません。清盛も時子も桓武平氏でありながら、坂東で武者となった高望流の伊勢平氏である清盛に対し、京に暮らし実務官人を輩出した高棟流の公家平氏である時子では、京に執着する気持ちは異なるのでしょう。

九条河原口に果てる

治承四年(一一八〇)十一月、福原遷都の夢破れて京へ戻る時、清盛は「一人も福原に残るべからず」と命じ、自らも十年あまり暮らした福原山荘を離れ入京します。福原新都建設と東国反乱の鎮圧を同時進行させるのは無理があり、軍事作戦を優先させるための還都でした。

矢継ぎ早に追討軍を発向させ畿内の反乱軍を一掃すると、福原に代わる新都造営に乗り出します。嫡男宗盛は「鴨川の東、九条の末」および鴨川をはさんだ西側「八条、高倉」に新造した堂を持っていたところ、還都から二か月後の治承五年正月、清盛は両邸の周囲に広がる一帯を強制的に接収します(『玉葉』治承五年正月二十七日条)。

今回の上洛では、常と異なり清盛は西八条第ではなく宗盛の河原東に新造した堂へ入ったのです。そして郎従の住居に充てるため、周辺の土地が必要になったのだと強硬措置の理由を弁明しています。宗盛堂の所在地はJR東福寺駅の北側あたりと思われます。そこから鴨川をはさんだ西の河原にかけて、清盛は平家の新たな拠点を築こうとしたのです。同年二月には安徳天皇の御所を八条にあった平頼盛り邸に定めます。これで西八条第から後白河の御所である最勝光院まで、八条大路周辺は新たな平家拠点の様相を見せ始めます。これを清盛の福原に代わる新都造営と評価する研究者もいます。

図3 八条大路周辺の平家拠点

しかし清盛の突然の死去により、新都構想は瓦解します。清盛の亡くなったのは、まさに新都造営を進める八条河原口(『吾妻鏡』では九条河原口)にあった平盛国邸でした。平家棟梁となった宗盛は父の遺志を継がず、拠点を六波羅へ戻し、木曽義仲の軍勢が迫ると六波羅、西八条第に火を放ち都落ちします。清盛の栄華を刻んだ邸はいずれも灰燼に帰しました。

時政の宿所と六波羅

頼朝の代官として京に常駐し治安維持に努めた義経は、後白河との関係を深めていく反動で、頼朝との関係を悪化させます。壇ノ浦合戦で平家を滅亡させ、生け捕った平宗盛、清宗らを鎌倉へ護送した義経は、頼朝との面会を許されず、失意の内に帰京しました。

頼朝は義経の独断専行の振る舞いをよしとせず、義経が囚人を連れて帰京した直後の文治元年(一一八六)六月、義経に与えた平家没官領二十四カ所をすべて没収しました。このうち京中の家地であった一所「綾小路北河原東、平景高邸」は北条時政が拝領しました。現在の綾小路通は鴨川手前で京都太神宮に突き当たって終わりますが、裏手には高瀬川にかかる「綾小路橋」があります。この延長上で鴨川を渡った北東あたりが時政に与えられた家地だったのでしょう。

高瀬川にかかる綾小路橋(地図

義経と行家の企てた頼朝へ対する挙兵は失敗に終わり、西国へ渡ろうと出航した摂津国大物浦で遭難して謀叛人たちは姿をくらませます。大軍を率いて上洛を試みた頼朝は、義経らが逃亡したと知ると鎌倉へ引き返し、代官として時政に兵を付けて京へ送り出しました。

京都守護として時政が京に入ったのは文治元年(一一八五)十一月二十五日。頼朝の意を受けた時政は、藤原経房を通じて多くの要求を朝廷側に申し入れ、全国への守護・地頭の設置を認めさせるなど、多くの成果を上げました。時政が京に滞在したのは、翌年三月までの四か月ほどで、平家の拠点だった六波羅に滞在したとされます。

この時期の交渉相手である後白河は六条殿に住んでいたので、時政は河内源氏累代の居所である六条堀河邸を宿所とすれば幸便だったはずです。また、六波羅は平家都落ちの際に焼け落ちたとされ、平家没官領として頼朝の領地となってからも、宿所として使える邸を再建したという記録は見当たりません。時政は本当に六波羅に居を構えて朝廷との交渉に当たったのでしょうか。一部の邸が焼け残っていた可能性もありますが、先述した綾小路河原東の家地を宿所として使いつつ、頼朝の命を受け六波羅の再建に向けた準備を行っていたのかもしれません。

文治二年(一一八六)四月に京を離れて鎌倉に戻った時政に代わり、頼朝の同腹妹の夫である一条能保が第二代の京都守護として業務を引き継ぎ、その後も京都守護職は鎌倉幕府の出先機関として継続され、承久の乱を経て南北の六波羅探題へと発展します。また、頼朝が伊豆配流後に初めて上洛した建久元年(一一九〇)十一月、六波羅は頼朝一行の宿所として利用されました。平家が開いた六波羅の地は、時政の手を経て無事に鎌倉幕府へと受け渡されたのです。

武者にとっての京

本稿では源平争乱の端緒となった源頼政の邸をはじめ河内源氏の六条邸、平家の六波羅や八条大路など、武者たちの暮らした邸を眺めてきました。そこで気付くのは、彼ら武家の邸は鴨川東か下京にしか存在しなかったということです。

福原から京へ還都したとき、清盛は安徳天皇を平家の拠点である六波羅に住まわせようとしたところ、貴族の猛反対に遭って断念しました。天皇の住まいに安置すべき神鏡が鴨川東に渡るなんて許さん、というわけです。そこで清盛の腹心である藤原邦綱の五条東洞院亭に安徳天皇を迎え入れますが、これに貴族からの反対は出ませんでした。ところが次に八条室町の平頼盛邸へ御幸を決めると、再び貴族たちから反論が出ました。

神聖なる天皇の御座(おわ)すべき京中とは、鴨川を越えず、かつ五条大路より北だと貴族は認識していたことが分かります。武者は殺し合いを業とする穢れた存在ですから、神聖なる京中には住むべからずという不文律があり、源氏も平家も鴨川東か六条以南に邸を構えるしかなかったのです

(公開日:2025-11-19)