後白河法皇の遍歴

吾妻鏡の語る源平争乱で重要な役割を演じるのは、「和漢比類なき暗主なり」と側近の信西に手厳しく批判された後白河でした。武者の世が到来して政情が激しく揺れ動く中、治天の君として存分に世の中を引っかき回し、後世の歴史愛好家に数え切れないほどの研究ネタを提供してくれた後白河は、自ら望み、あるいは他者に強要され、京中各地を御所になして移り住みました。その遍歴の住居をたどることで吾妻鏡に登場した京を概観してみます。

後白河が院政の拠点にしたのは、七条大路の鴨川東に建立した院御所の法住寺殿です。転居したのは永暦二年(一一六一)、頼朝挙兵の十九年前になります。現在では蓮華王院(通称は三十三間堂)の東向かいに法住寺という小さな寺院があり、「法住寺殿蹟」の石碑があります。

法住寺殿蹟(地図

当時の法住寺殿は蓮華王院を含み、北は京都国立博物館北の豊国神社あたりから南はJR東海道線を越えて新熊野社の南あたりまでを含む十町余、内部には大小の堂舎が八十もあった壮大な空間でした。寝殿造りで知られる上流貴族の邸は一町四方(約一万四四〇〇平方メートル)でしたから、その十倍以上の地所を占有していたわけです。

図2 法成寺殿および六波羅

ここに理想郷を築いた後白河は、この地で生涯を過ごしたいと願ったのかもしれませんが、激動の歴史はそれを許してはくれず、やがて各地を遍歴する運命に見舞われます。

鳥羽殿幽閉

蜜月関係にあった後白河と平清盛に亀裂が生じたのは、両者を結びつける役割を担った建春門院の急死でした。安元二年(一一七六)七月、頼朝挙兵の四年前です。翌年には、後白河と近臣たちが清盛誅殺の謀議を巡らせたとされる鹿ヶ谷事件が起こり、後白河自身に処罰は下されなかったものの、院近臣の多くは処刑または流刑となります。

翌治承二年(一一七八)十一月十三日、清盛の娘徳子の腹に高倉天皇の皇子言仁(ときひと)が誕生すると、翌月には立太子の儀が執り行われ、皇位は清盛の系譜に受け継がれることになります。皇位選定権は上皇である自分の専権事項であるべきなのですから後白河は面白くありません。

反撃の機会を狙う後白河が目を付けたのは、清盛一族の重要な所領を没収して経済的打撃を与えることでした。これにぶち切れた清盛は軍兵を京に配備しクーデターを起こします(治承三年、頼朝挙兵の前年)。院近臣を大量解官させた清盛は、後白河領の多くも没収して平家一族に分配、さらに後白河を鳥羽殿に幽閉し院政を停止させました。

鳥羽殿とは白河天皇が造営した離宮で、鳥羽法皇が晩年を過ごした院御所です。平安京の中心を貫く朱雀大路の南端、羅生門をくぐり抜けてさらに南へ延びる鳥羽作道が鴨川と桂川の合流地点に突き当たる川岸が鳥羽殿でした。現在は川筋の移動により鴨川の南岸、京都南ICの南あたり鳥羽離宮跡公園があり、「鳥羽離宮跡」の石碑や「鳥羽殿跡」の表示板があります。

鳥羽離宮跡公園(地図

後白河はここで武士に監視され、限られた近臣と女房以外の出入りを禁止られた軟禁状態で、鬱々とした日々を過ごしました。誰か憎っき清盛を倒してここから救出してくれッとの願いは、治承四年(一一八〇)の以仁王挙兵という形で叶えられたかに見えましたが、計画は事前に漏洩し、平家軍にあっけなく鎮圧されてしまいます。

福原遷都

反乱は抑えたものの、以仁王の挙兵に園城寺、興福寺が加勢したことは清盛に大きな衝撃を与えます。かろうじて延暦寺は清盛の説得に応じて敵対しなかったのですが、それとても興福寺との因縁があったから。もともと延暦寺は清盛の厳島神社を重視する姿勢に強い反感を抱いていました。こうした権門寺院の影響力を排除したい清盛は、治承四年(一一八〇)六月二日、自身の暮らす福原への遷都を強行します。

福原の中心地とされる雪見御所の石碑(地図

後白河は、高倉上皇、安徳天皇、および一部の貴族たちもろとも、清盛の福原山荘周辺に強制移住させられました。土地の狭い福原では宿所の用意もままならず、平頼盛の邸宅を安徳天皇の内裏とし、清盛の山荘を高倉上皇の御所、そして後白河は平教盛の邸をあてがわれ、引き続き武士に監視される幽閉生活を送ります。

教盛邸は福原御所から西に下った氷室神社の近くにあったとされ、清盛は後白河のために邸近くに熊野神社を勧請しました。いずれも福原中心地から外れた起伏の多い土地で、後白河の置かれた立場をよく表しています。

遷都から二か月あまり経った八月十七日、伊豆国に流刑されていた源頼朝が突如挙兵すると、甲斐源氏の武田信義や子息一条忠頼、安田義定、信濃源氏の木曽義仲ら東国武士たちが次々と反平家をとなえて武装蜂起します。清盛はすぐさま追討使を派遣しますが、富士川合戦で平家追討使が大敗を喫して京へ逃げ帰ると、還都を主張する意見は貴族たちのみならず平家一門からも強まります。

京への帰還と幽閉解除

東国源氏の相次ぐ挙兵は、福原に新たな都を築くという清盛の野望を打ち砕きました。清盛にとって喫緊の課題は、平家一門を中心とした官軍の立て直しと、近江国まで迫る反乱勢力の鎮圧です。それに注力するためには、新都建設を諦め、京への還都を受け入れるしかなかったのです。

同年十一月二十六日に京へ戻った後白河は、いったん平家の支配空間である六波羅の泉殿へ入った後、高倉上皇の住まう池殿へ移ります。ふたりの上皇を同宿させる意味は、院御所で執り行われる公卿詮議に後白河を同席させること。つまり後白河の幽閉はここに解除されたのです。

六波羅蜜寺に残る平家六波羅第を示す石碑(地図

この措置の背景には高倉上皇の体調不良がありました。それ故に、後白河による院政は形式的なものにとどまり、引き続き清盛の主導する強権的な政治は続きます。

最勝光院御所で院政復活

翌治承五年(一一八一)正月十四日、高倉上皇は六波羅池殿で亡くなります。安徳天皇はまだ数えで四歳の幼少で政治は行えませんから、平家としても後白河の院政を復活させざるを得ません。新たな院御所は、六波羅の南に広がる法住寺殿南にあった最勝光院(図2参照)です。現在は遺跡など残っていないようですが、場所は後白河が勧請した新熊野社の西、蓮華王院の南西あたりだったそうです。

思えば鳥羽殿に幽閉されて以来、三年ぶりに里帰りを果たした後白河に好事は続きます。寵妃だった建春門院の建立した最勝光院に移り住んだ後白河は何事を祈ったのか知りませんが、翌閏二月四日、高熱に苦しんだ末に清盛は死去します。死期を悟った清盛は後白河に使者を送り、自分の亡き後は嫡男宗盛に万事を任せてほしいと遺言したのですが、これに対して完全無視を決め込んだ後白河は、清盛の葬儀当日は最勝光院御所で今様を歌って乱舞したと伝えられます。

今様とは当時貴賤の人々に広まった流行歌のこと。いくら憎い政敵だったとしても、国務大臣の最高位まで務めた人物の葬儀当日に、今風に言うなら自宅でカラオケパーティーを開いてどんちゃん騒ぎを繰り広げたのですから、後白河という人物は大した心胆の持ち主です。

平家都落ちに同行せず

絶対的リーダーを失った平家の衰退は誰の目にも明らかになります。家督を託された宗盛は、早々に後白河へ院政復活を願い出ました。三十五歳の若き平家総統には、父のごとく後白河と伍して朝廷政治を牛耳る自信も自負もなかったのです。

それでも鎌倉に拠点を置いた頼朝や、東海道を駿河・遠江まで支配する甲斐源氏は上洛の構えは見せません。素早く動いたのは、信濃から越後へ出兵し、北陸道を抑えた木曽義仲でした。平家の送り込んだ官軍を次々と打ち破った義仲軍は寿永二年(一一八三)七月、比叡山堂衆の同意を取りつけ、今にも琵琶湖畔から京へなだれ込む勢いを見せました。

同年七月二十五日の巳の刻(午前十時頃)、宗盛は安徳天皇と後白河院、三種の神器を携え、太宰府への都落ちを決行します。ところが早朝に法住寺殿を訪れると主上の姿は見えません。平家都落ちに連行されると察知した後白河は、前夜のうちにこっそり院御所を抜け出し、鞍馬山を経て比叡山へ脱出していたのです。

比叡山延暦寺(地図

六波羅の屋敷に火を放った平家一門は安徳天皇、神器と共に西海へ落ち行きます。代わって京を制圧したのは義仲と行家でした。比叡山から法住寺殿の蓮華王院に戻った後白河は、入京した武士に京中警護を命じ、安徳天皇に代わる新帝擁立に動き出します。

法住寺合戦の顛末と五条殿

新帝として高倉上皇の皇子尊成親王(後の後鳥羽天皇)を用意した後白河に対し、義仲は自身で養育する以仁王の遺児北陸宮を強訴します。治天の専権事項である皇位継承に口出しされ激高した後白河は、院御所に武士を招集して義仲との武力対立も辞さない構えを見せます。清盛すら恐れない後白河にとって、東国の田舎武者ごときは恐るるに足らず、だったのでしょう。

義仲が後白河を攻めた法住寺合戦(寿永二年十一月十九日)はあっけなく義仲軍の勝利となり法住寺殿は炎上、脱出をはかった後白河はあえなく捕まり、五条東洞院にあった摂政基通邸へ連行され、ここで再び幽閉の憂き目を見ることになりました。

新たな院御所となり五条殿と呼ばれたこの邸は、平安京の左京六条三坊十六町にあったとされ、現在は松原通(当時の五条大路)と東洞院通の交わる南西一角に比定されます(図2参照)。

六条殿に移り京中に踏みとどまる

平家を都から追い落とし政権を掌握したかに見えた義仲でしたが、行家をはじめ友軍から多くの造反者を出した上、頼朝が放った義経・範頼の追討軍が迫り来るにおよび、今度は義仲自身が都落ちを画策するとの噂が流れ、落ち延び先は四国、北陸、近江など情報は二転三転します。当然、治天の君たる後白河は随行を強いられたのですが、そこは天下の策士ですから、穢れがあるだの病気に罹っただのとあらぬ理由をこじつけ、時間稼ぎをします。

緊迫する状況の中、後白河は五条殿を出て、六条西洞院にあった平業忠邸に渡御します(図2参照)。新たな院御所となった六条殿は、五条殿に比べて四分の一の敷地しかない狭小な邸ですが、その方が警護しやすいため、あるいは五条殿は怪異があるため、などの理由が取り沙汰されますが、本当のところはよく分かりません。

六条殿の想定地とされる天使突抜四丁目付近(地図

六条殿を提供した業忠はもともと位の低い京武者でしたが、姉の坊門局が後白河の寵愛にあずかり、従四位上大膳大夫という望外の大出世を遂げた人物です。当然ながら大恩のある後白河へ全力で奉仕したでしょうから、そうした利便性を求め、うまいこと理屈を並べて六条殿へ引き移ったのかもしれません。

終の棲家となった六条殿

それからひと月後には義仲は誅殺され、義経が入京し院御所の警護に当たりました。晴れて後白河は院政を完全復活させ、二度と住み処を追われることはありませんでした。もっとも法住寺殿は焼失したままでしたので、後白河は狭い六条殿に住み続けます。

壇ノ浦で平家が滅亡して三年後の文治四年(一一八八)三月十三日、六条殿および殿内に建てられた後白河の持仏堂である長講堂は焼失しました。この知らせを受けた頼朝は六条殿の再建に着手し、敷地を一町四方に拡張した新邸を献上します。頼朝は建久二年(一一九二)には義仲によって焼かれた法住寺殿も再建したのですが、後白河はなぜか六条殿に住み続け、翌建久三年三月十三日未明に息を引き取りました。享年六十六。

後白河に寄進された荘園は長講堂領とされ、その数は八十八カ所にもおよび、八条院領とならぶ王家領荘園となりました。これと六条殿は皇女の宣陽門院に譲られました。

後白河の遺骸は法住寺殿の蓮華王院にあった東法華堂内に収められました。この陵墓は現在の法住寺内に「後白河天皇 法住寺陵」として残されています。当時は近くに寵妃だった建春門院陵もあったとされます。

後白河天皇 法住寺陵(地図

(公開日:2025-11-18)