三浦党と平家軍の戦い

伊豆国反乱軍との合流を断念した三浦党は領地へ帰還しますが、途中で武蔵国から進軍してきた畠山軍に遭遇し、鎌倉の由井浦(由比ガ浜)で合戦におよびます。小坪坂合戦とも呼ばれるこの戦いに勝利したのは三浦党でしたが、敗れた畠山軍は同じ秩父党の河越、江戸らの援軍を率いて三浦を攻め、衣笠城を陥落させました。

八月二十七日、頼朝を取り逃がした大庭景親は残っていた兵を率いて三浦攻めに参軍しますが、三浦党の武将は船で逃亡した後だったと知り、ここでようやく矛を収めて領地へ帰ったと『吾妻鏡』は伝えます。

余談となりますが、景親という武将はたいへん有能な軍人だったと感じます。『玉葉』が伝える景親下向のくだりは次の通りです(高橋貞一『訓読玉葉 全八巻』より引用)。

伝へ聞く、近曽仲綱の息追討のため(素より関東に住むと云々)、武士等を遣はす(大庭三郎景親と云々。これ禅門私に遣はす所なり)。而るに件の仲綱の息奥州方へ逃げ脱し了んぬ。

景親が禅門(平清盛)から私的に命じられたのは、源仲綱の子息(有綱)の追討ですから、関東に下向したところ有綱は奥州へ逃亡した後だったと判明したのなら、そこで自分の任務は終了と判断し、領地に引きこもって足柄峠の向こう側で起こる事態を静観してもよかったはずです。

同じ時期に東国の反乱分子を追討するよう平宗盛から命じられて下向した新田義重は、一切兵を動かすことなく寺尾城(現在の群馬県高崎市寺尾)に引きこもって様子見を決め込み、富士川合戦で平家方が大敗を喫し、常陸国の佐竹氏を敗走させた頼朝が関東で不動の地位を確立したのを受け、十二月にようやく頼朝の元へ参上し軍門に降りました。

これに比べて景親は、自発的に相模、武蔵両国の武将に招集をかけ三千余騎の兵力結集に成功し、駿河国の橘遠茂とも連携して、積極的に甲斐源氏討伐に向かいました。この素早い動きが奏功して、八月末の時点で相模、武蔵、伊豆、駿河という東海道諸国の反平家勢力を見事に鎮圧したのです。

ところが皮肉なもので、軍人として非常に優秀だった景親は、石橋山合戦からわずか二か月後の十月二十三日に捕えられ、頼朝の命により同月二十六日に斬首されました。一方、日和見主義者の義重は同族のよしみで頼朝から一目置かれ、六十八年の天寿を全うし、子息たちは幕府内に一定の地位を得る一門となりました。武人の行く末など一寸先は闇、明暗どちらに転ぶか分からないものです。

さて、いろいろと脱線しながら書き連ねてきた末に、ようやく三つ目の謎である「兵を石橋山へ移動させた意図は何か」について解明できました。仲綱残党軍は黄瀬川宿で安田軍の到着を待ちますが、橘軍が進行してくることを知り退却を決め、指令本部のあった北条館を目指します。ところが、南方から攻め上ってきた伊東軍に行く手を阻まれ、やむなく逃れた先が石橋山でした。そこから谷をひとつ隔てた先には、予想だにしなかった大庭軍が集結しており、万策尽きて石橋山の宿営地で天を仰いだという状況だったのです。

これにて本記事の冒頭に掲げた『吾妻鏡』の三つの謎は、すべて答えを得られました。しかし、本記事に登場した頼朝は、私たちが歴史の教科書でよく知る鎌倉幕府を樹立した征夷大将軍とは、あまりにもかけ離れた存在のままです。この著しい落差を埋め、頼朝が私たちのよく知る大将軍に変貌する姿を見届けるために、もうしばらく『吾妻鏡』に対する考察を続ける必要があります。

(公開日:2023-10-22)