令旨をめぐる伊豆指令本部の動き

平家打倒計画は「兼ねてから準備していた」と『吾妻鏡』に記されますから、治承四年四月から数か月はさかのぼる時期に動き出したと考えられます。平清盛が後白河法皇を幽閉したクーデターの発生は治承三年十一月で、それを境に貴族、武士の間で平家に対する反感は高まりました。仲綱がそれを好機と捉えて決断したとすれば、治承三年十二月頃から具体的な軍事行動の準備に入ったでしょう。

『吾妻鏡』の伝える「自分ひとりの力ではとても前々からの願いを遂げることは難しいので」という源平の勢力分析は、仲綱が直接動員できる伊豆国の兵力を考えれば、当然の判断だといえます。父頼政に従う摂津国渡辺党などの兵力を総動員したところで、平家軍に拮抗するには遠く及びませんから、仲綱は当初より東国の源氏諸勢力を糾合する考えだったに違いありません。

反乱軍指令本部となった伊豆有綱館には、頼政および仲綱を主君と仰ぐ国衙系武将の工藤、北条、宇佐美、加藤、仁田、天野らが集い、軍議を重ねました。もっぱらの議題は、いかにして東国源氏諸氏の賛同を得るかであり、頼朝もかつての主従関係を活用できる貴重な人材として参加していたはずです。

有綱の指令を受け、伊豆の武将たちは、これはと思える源氏諸氏や在地武将らを訪問し、平家打倒計画への参加を打診しますが、事はそれほど順調に進んだとは思えません。クーデターで多くの知行国を手に入れた平家一族は、東国の所領で一所懸命に暮らす在地武士の既得権に対し、容赦ない収奪を実行するのは自明ですから、平家憎しの一点では合意を取り付けられても、いざ挙兵となれば、戦費の大きさや敗死する危険から、なかなか期待したような返事は得られなかったでしょう。

消極的な反応の中でも、官軍たる平家に対して賊軍に甘んじて戦うのは如何なものか、といった声は多くあったはずです。そうした空気をかき消し、逡巡する武将らの背中を押す最後の決め手となるのが、王家から取り付けた以仁王もちひとおうの令旨でした。

この推察に従えば、令旨は真っ先に伊豆国へ届けられたとする『吾妻鏡』の記述は真実と考えられます。ただし宛先は頼朝ではなく有綱であり、「令旨を開いて見せられた」のは時政だけではなく、軍議に参加する多くの伊豆国武将たちもまた待ち焦がれていた令旨を拝謁し、これさえあれば多くの味方を獲得できるぞと、手を取り合って喜んだことでしょう。

しかし喜びも束の間、以仁王の乱はあっけなく鎮圧され、伊豆国は窮地に追い込まれます。

(公開日:2023-06-04)