以仁王と源頼政の力関係

先に引用した『平家物語の虚構と真実』の中で上横手氏は、頼政の挙兵について、次のように述べます。

その平凡な人生は、功成り名遂げたものであり、七十六歳にして出家する彼に何の不満があったとも思えないし、まして、清盛にとってかわろうとする野心があったなどとはとうてい想像できない。

頼政に政権転覆を謀る動機はなかったとする考察に激しく同意します。平安末期の日本人の平均寿命は三十年くらいで、四十歳で長寿を祝う習慣があったとされますから、当時の七十六歳は例外的な長寿です。現代人にとっては百歳を超えた年齢に相当するでしょう。幸いなる長寿に恵まれ、さらに従三位叙勲の拝賀を延期せざるを得なかったほど重い病身だった頼政は、家族に見守られて安らかな最期を迎える以外、自らの身に何の望みもなかったはずです。それなのになぜ、頼政は挙兵に踏み切ったのでしょうか。

上横手氏は、頼政から強い調子で決起を促されたとされる以仁王もちひとおうこそが、実の首謀者だったと分析します。以下、前掲書に即して以仁王の半生を振り返ってみましょう。

当時、治天の君である後白河法皇の第三皇子だった以仁は、異母兄の守仁守仁もりひと(後の二条天皇)が「すでに皇太子として将来の皇位を約束されていた」ので、仏門に入り天台宗座主最雲の弟子となりました。医療技術が未発達で幼児の死亡率が高かった当時は、安定した皇位継承のため天皇は多重婚により多くの皇子を儲けるのですが、これは諸刃の剣となります。

王家と婚姻を結べるのは財力、政治力に富んだ上流貴族の娘に限られ、幸運にも男児に恵まれれば、当然母方一族はわが子に皇位を継がせようと躍起になります。そうした政争の種を未然に封じる意味もあり、以仁は同母兄とともに仏門に入れられました。

ところが師の最雲が没すると、以仁は還俗して学問に励み、笛の名手となるなど、諸学に才能を開花させます。周囲は皇位に就く器量ありと見なすようになり、以仁自身もその気になったらしいのです。

この時、皇位にあった二条天皇は病弱で皇子も誕生していなかったので、異母弟の以仁と憲仁のりひとが皇位継承者の有力候補でした。憲仁の母建春門院滋子しげこは清盛の妻時子の妹ですから、以仁は憲仁の即位を望む清盛から強く警戒されていたのも無理はありません。

やがて二条天皇には皇子順仁のぶひとが誕生し、後の六条天皇となります。順仁の生母は天皇の后として家柄は低かったのですが、父後白河と仲の悪かった二条天皇は、強引にわずか二歳の皇子に譲位し、間もなく死去します。

こうして践祚した六条天皇ですが、後ろ盾となる母方の勢力は弱く、早くも皇位継承をめぐる政争が繰り広げられます。六条天皇が即位した年に十五歳だった以仁は、「忍びつつ近衛河原の大宮の御所にて、御元服ありけり」(『平家物語』「源氏揃」の段)と、あたかも皇位の不安定な六条天皇の即位を見計らったように皇位継承者に名乗りを上げれば、清盛も負けじと憲仁に親王宣下を受けさせ、翌年に皇太子として次の皇位を約束させました。

(公開日:2023-04-29)