以仁王の令旨が来た道

本記事はこれまでの考察に基づき、以仁王もちひとおうの乱を首謀したのは前伊豆守源仲綱だったという前提に立ち、『吾妻鏡』を読み直していきます。

以仁王の下した令旨が源行家(頼朝の叔父)に託され、東国の源氏諸氏へ伝達されたとする『吾妻鏡』の治承四年四月九日条を引用しましょう。

そこで、廷尉(源)為義の末子である陸奥十郎義盛が折しも在京していたので、「この令旨を携えて東国に向かい、まず頼朝にこれを見せた後、そのほかの源氏にも伝えるように。」とよくよく仰せられた。義盛は八条院の蔵人に任ぜられ、名乗りを行家と改めた。

そして行家は四月二十七日に伊豆国の北条館に到着し、令旨を頼朝に見せたとします。一方、『平家物語』「源氏揃」の段には、四月二十八日に京を発った行家は近江国から始めて美濃国、尾張国の源氏に触れ歩き、五月十日に伊豆国北条へ下り着いて頼朝に令旨を見せた後、常陸国の志田義広へ伝え、木曽義仲にも見せるため東山道へ赴いたと、異なる行程を伝えます。

令旨が最初に伊豆国へ伝えられたとするのは、頼朝の挙兵を正史とする『吾妻鏡』の曲筆で、平家物語のように京を出発して近江、美濃、尾張と近国から順に触れ回るのが理にかなうと、当初は考えました。

平家物語は、頼政が以仁王を説得するにあたり、挙兵に呼応するはずであろう源氏諸氏として在京の武将をはじめ、紀伊(熊野)、摂津、河内、大和、近江、美濃、尾張、甲斐、信濃、伊豆、常陸、陸奥と十二か国の武将名を五十ほど列挙します。

当時の京に暮らす貴族社会の人には、すぐに思いつくだけでも、これだけの源氏武将が存在したわけですから、わざわざ私兵を持たない戦力外の頼朝を筆頭に令旨を開示する理由は見当たりません。

ところが、乱の首謀者を仲綱と仮定すれば、令旨は真っ先に伊豆国へ届けられたとする『吾妻鏡』の記述でよいのです。ただし令旨の宛先は頼朝だったとするのは虚構であり、従って頼朝が衣服を水干に改め、氏神である石清水八幡宮の方角を遙拝してから、謹んで令旨を開いて見たというドラマチックな描写も、残念ながら事実に反すると考えます。

それでは以仁王の令旨は、伊豆国の誰宛に届けられたのでしょうか。当時、仲綱は父頼政と共に京で活動していましたから、伊豆国には仲綱の意を受けた重要な人物がいたはずなのですが、なぜか『吾妻鏡』には一切の言及はありません。

また、令旨を東国に届けた行家は、平家追討計画を漏洩させる失敗を犯します。先ずはこの歴史の残る大失態を確認した後、伊豆国の重要人物は誰だったのかを解明しましょう。

(公開日:2023-05-20)