伊豆国目代山木兼隆襲撃

八月十七日、頼朝はついに平家打倒の兵を挙げます。手勢の武将として名前を確認できるのは北条時政、前回で触れた定綱ら佐々木四兄弟、岡崎四郎義実と子息左奈田与一義忠、土肥次郎実平、加藤次景廉、堀藤次親家など。おそらく彼らの親族、例えば時政であれば子息の宗時と義時も加わったと思われますが、かなり少ない軍勢でした。

頼朝は前日「人数がまことに少ないので、明朝に(山木)兼隆を討つことを延期しようかとためらわれた」のですが、未の刻(現在の午後一時から三時)に、前日来の大雨の影響で遅れていた佐々木四兄弟が到着したのを受け、早朝に予定していた攻撃を夜襲に切り替え、山木館へ攻撃を仕掛けて見事に兼隆と郎従らを討ち取りました。

山木判官兼隆について『吾妻鏡』は、「伊豆国に流された流人である。父和泉守(平)信兼の訴えによって伊豆国の山木郷に配流され、何年か経つうちに、平相国禅閤(清盛)の威権を借りて、周囲の郡郷に威光を振りかざすようになっていた。これはもともと平家の一族だったからである」と記します。

ここでひとつの疑問が湧いてきます。なぜ京の平家を討つ大義のために挙兵したのに、清盛の同族と言うだけの取るに足らない伊豆国目代を標的とし、いたずらに時間と兵力を消耗させたのでしょうか。この件については後に詳しく分析しますが、当時それはさほど特別なことではなかったようです。

例えばこの時期に以仁王の令旨に呼応して挙兵した甲斐源氏は、まず信濃国の伊那郡大田切郷にあった菅冠者なる平氏方を襲撃していますし、安房国に渡った頼朝軍に合流した下総国の千葉氏は、挙兵の手始めに平氏方である同国の目代を討伐しています。当時、武将が大きな軍に臨む折には、本拠地を留守にするにあたり、あらかじめ近隣の敵将を叩きつぶしておくのが常套手段だったのかも知れません。

頼朝が拠点とした北条館と山木館とは、直線距離にしておよそ二キロメートルの近接した位置関係にあります。北条館からは、山地の奥にあった山木館を遠望できたはずで、頼朝は夜討ちへ向かう兵へ、まず館に火を放つよう下命しました。北条館で戦勝の報を待つ頼朝は、敵方の屋敷が燃え上がる炎を見たがったからです。

不意打ちに遭ってあっけなく滅ぼされた兼隆は、これほど目と鼻の先にある北条館の動向を警戒していなかったのでしょうか。頼朝軍が夜討ちを仕掛けた八月十七日は、伊豆国府に近い三嶋大社の大祭が行われ、兼隆を守護するべき侍たちは皆連れだって見物に出掛け遊び明かしていたので、館の守備は手薄だったといいます。

伊豆国目代といえば、任国に赴かない国守に代わり国の治安に責任を持つ立場です。すでに時政謀叛の企ては、長田入道の書状によって平清盛に報告されているわけで、それを受けて大庭景親が急遽関東に下向しています。同じ平家一門のよしみで流人の身から目代に取り立ててもらった兼隆が、伊豆国の緊迫した情勢を知らなかったでは済まされません。息のかかった郷民を祭事や農事の相談などにかこつけて北条館を探らせ、反乱軍の動きを察知して先制攻撃を仕掛けてもおかしくないはずですが、どうやら兼隆という人物にそうした才はなかったようです。

(公開日:2023-02-11)