俣野景久と駿河国軍の出兵

吾妻鏡』の八月二十五日条は「大庭三郎景親は武衛(源頼朝)の行く途をふさごうと軍勢を分散させ、方々の道を固めた」という一文で始まります。この前日、頼朝らと箱根神社の永実宿坊で夜を明かした時政は、夜が明けると「山伏の通る路を経て甲斐の国に向かわれた」のですが、途中で引き返してきたことは前述しました。

前日の杉山での合戦中でも、時政は「箱根湯坂を経て甲斐国へ向かおうとしていた」のですが、この時も途中で断念して引き返しています。箱根湯坂とは現在の箱根湯本から芦ノ湖畔を経て箱根峠に至る東海道の旧道(当時は足柄峠を通るのが正道)を指すと思われます。時政は杉山(現在の神奈川県足柄下郡湯河原町)から北上し芦ノ湖付近で湯坂路に入り、宮ノ下で仙石原方面へ左折し、現在の国道138号と重なる道を進み、乙女峠を越えて甲斐国を目指したのでしょう。

しかしこの最短ルートは大庭軍によって封鎖されていたため、翌日に「山伏の通る路」を試みますが、やはり断念せざるを得ませんでした。大庭軍がここまで徹底して小田原から甲斐国方面へ向かう路を塞いだ意図はどこにあったのでしょうか。

『吾妻鏡』の二十五日条は続けて「俣野五郎景久は、駿河国目代の橘遠茂の軍勢を引き連れ武田・一条らの源氏を襲撃するために甲斐国へ向かった」と記します。さり気ない一文ですが、検討すべき点は盛りだくさんです。

俣野景久は大庭景親の弟で、二十三日の石橋山合戦開始時に名前を挙げられた平家方の武将です。軍大将景親の次に名前が記されるので副将といった地位でしょうか。

駿河国は平宗盛の知行国で国守は平維時という盤石な平家領国でした。目代橘遠茂は、新田義重と同様に、宗盛から東国平定を命ぜられていたはずで、景親と連携して軍事行動を展開しました。俣野・橘連合軍が甲斐国へ向かったのは、義重が書状に記した武田信義の挙兵に対応するためだったのは間違いありません。

ところで、ここまで漫然と『吾妻鏡』を読み流していると、景久は二十三日に小田原付近の大庭軍に在り、夕刻から翌二十四日にかけて石橋山合戦に参戦し、二十五日になって甲斐国へ移動したように受け取ってしまいますが、実はそうではありません。

『吾妻鏡』の次文は「しかし昨日、辺りが暗くなったので富士山の北麓を宿とした」とあります。昨日とは二十四日のことです。そして、小田原付近から箱根湯坂、乙女峠を経て御殿場へ下り、富士山東側を北上して篭坂峠を越え、富士山北麓に当たる河口湖周辺までの行程は、軍備を備えた騎馬隊列が一日で移動できる距離ではありません。

それでは俣野軍はどれだけの時間をかけて、小田原付近から河口湖周辺まで移動したのでしょうか。少しだけ寄り道をして、当時の騎馬連隊の行軍に要した速度を検討してみます。

(公開日:2023-07-15)