俣野軍を襲う異常事態

相模国早川付近(現在の小田原市内)に集結していた大庭軍の陣から箱根湯坂を経て乙女峠、篭坂峠を越えて富士山北麓(現在の河口湖周辺)まで、グーグルマップで距離を計測すると約六十五キロメートルでした。当時の成人男性による軽装の徒歩旅では一日の移動距離は三十五キロメートル前後ですから、途中に険しい峠を二つ越えることを考慮すれば、丸二日の行程と考えられます。

騎馬連隊の移動は一.五倍の三日は要しますので、二十四日に富士山北麓に到着したとされる俣野軍は、逆算すると遅くとも二十二日早朝、つまり石橋山合戦の前日には甲斐国へ向けて進軍を開始しなければなりません。

それではいったい何の目的で大庭軍は二十二日以前に三千騎もの大軍を小田原周辺に集結させていたのかという疑問が湧いてきますが、これについては後ほど検討するとして、今は二十二日から二十四日にかけて俣野軍は箱根湯坂路を埋め尽くすように続々と行軍したと考えておきましょう。

これならば時政が二度も甲斐国行きを断念した理由を理解できます。『吾妻鏡』は頼朝を捕らえるために景親は「方々の道を固めた」としますが、もちろんそれもあったでしょうが、甲斐国へ向かう俣野軍の隊列が時政の行く手を阻んだと解せます。二度目の甲斐国行きでは山伏の道を通ってなんとか御殿場までは行けたとしても、そこから先は駿河国を発った橘遠茂の率いる軍勢も加わった官軍が富士山東側の御坂路を埋めつくしていたはずで、とうてい甲斐国へは到達できないと判断したのでしょう。

粛々と甲斐国を目指す俣野・橘連合軍は、二十四日に富士山北麓で宿営したのですが、ここで驚くべき事態が発生します。『吾妻鏡』の八月二十五日条はそれを次のように伝えます。

しかし昨日、辺りが暗くなったので富士山の北麓を宿としていたところ、景久ならびに郎従が持っていた百余の弓の弦が鼠によって食いちぎられてしまった。

いくら鎌倉時代は科学が未発達だったとはいえ、野ネズミは意味もなく弓の弦をかじったりしないことくらい、当時の人でも分かるでしょう。むしろ昔の人は現代人より野生動物と身近に接する機会は多かったでしょうから、こんな非現実的なヨタ話を真に受けるとは思えません。

当時描かれた合戦の絵を見ると、大鎧を身にまとい騎馬で馳せる武者たちの左腰には、円形状の物体が描写されます(「平治物語絵巻」「春日権現験記絵」など)。これは弦巻と呼ばれる、矢を入れておくえびら の一部を構成する装備品のひとつで、合戦で弦が切れたときのために携帯する予備の弦(替弦かえづる )です(鈴木敬三『有職故実図典』吉川弘文館、近藤好和『弓矢と刀剣』吉川弘文館)。

景久らは武者にとって必須装備である弦巻を当然持っていたはずですから、もし夜間に野ネズミにかみ切られたとしても、翌朝に弦を張り直せばすむのです。ところが彼らはそれをせず、結果として最悪の事態を招きます。

(公開日:2023-08-05)