冷徹な現実主義者の頼政

頼政の人となりを示すもうひとつのエピソードは、平治元年(一一五九年)に勃発した平治の乱を記す『平治物語』から採りましょう。

後白河法皇派と二条天皇派の対立に摂関家の氏長者をめぐる内紛、源平両軍の勢力争いが絡み合い、ついに軍事クーデターが起こります。法皇に寵愛された藤原信頼のぶよりは、ライバルにして実力者の天皇派である藤原通憲みちのり信西しんぜい)を討ち滅ぼそうと、源義朝(頼朝の父)を抱き込みます。

平清盛が一族郎党を引き連れ熊野詣に出掛けると、在京する軍勢の主力が不在となった隙を突き、義朝は数百騎の軍勢で法皇の御所を包囲し身柄を確保すると、逃亡を企てた信西を殺害し、クーデターは成功したかに見えました。

この戦いで初陣を飾った十三歳の頼朝は、直後のお手盛り除目で従五位下、右兵衛権佐うひょうえごんのすけに叙せられました。どさくさ紛れの叙勲にせよ、若年にして貴族の一員となり、後々に「佐殿すけどの」と呼ばれる官職を得て輝かしい出世を遂げます。

しかし、絶頂の日は長く続きません。急報を受けた清盛は京へとって返し、信頼に臣従すると偽って二条天皇を救出し、六波羅の邸へかくまいます。法皇もまた仁和寺に脱出します。こうなると、天皇の身柄を確保した清盛が官軍となり、多くの武将が天皇方に付きます。

義朝は孤立して六波羅での軍に負け、東国へ逃亡中に討たれ河内源氏は壊滅し、頼朝はかろうじて死罪を免れ伊豆国へ流罪となるのですが、頼政が登場するのは、義朝が軍勢を率いて清盛の待ち受ける六波羅邸へ攻め寄せたときのことです。

すでに皇居となった六波羅へ武将らは次々参上する中、頼政は三百騎を率い、清盛邸とは賀茂川をはさんだ対岸に控えます。これを見た義朝の長男義平は、「頼政め、源氏と平家を両天秤にかけ、勝ち目のありそうな陣へ加わる気だ。そうはさせるか」と息巻いて小競り合いとなります。同門清和源氏の若輩者から「卑怯者め」と罵られ、源氏方へ加勢せよ恫喝されますが、頼政はこれをさらりとかわし、とうとう清盛の陣に加わったといいます。

二つのエピソードから頼政の性格を推し量れば、わずかな兵力しか持たないゆえ、機知にあふれた行動で難局を乗り切り、利あらずと見れば同じ氏族に背を向けることもいとわない冷徹な現実主義者といったところでしょう。そうした振る舞いをさせた根本には、一族の暮らしを何としてでも守り抜こうとする家長としての強い責任感を感じます。

そんな頼政ですから、皇位継承の望みを絶たれた以仁王もちひとおうから政権奪取の企みに誘われたからといって、二つ返事で承諾するとは到底思えません。なにしろ平治の乱後の二十年間、頼政は清盛と良好な関係を築いて安定した日々を過ごし、子息たちも暮らしに困っていないのです。世間ではおごれる平家に不満を持つ者は多く存在したとはいえ、頼政一族にとってはどこ吹く風とやり過ごすだけでよかったはずです。

(公開日:2023-05-06)