北条時政とは何者か

以仁王の令旨が届けられた場面に登場する北条時政について、『吾妻鏡』は「上総介平直方朝臣の五代の孫にあたる北条四郎時政主は、伊豆国の豪傑」であると紹介します。

平直方は十世紀頃に東国へ勢力を扶植した武家の桓武平氏ですから、時政は同じ桓武平氏である上総氏、千葉氏、秩父氏、三浦氏などに引けをとらない名門の末裔です。

ところが「五代の孫にあたる」時政の出自については、複数の家系図が存在し、はっきりしません。参考までに奥富敬之氏による推定系図(『鎌倉北条氏の興亡』吉川弘文館)に従えば、祖父は時方、父は時家、北条介を名乗った伯父の時兼が嫡流で、その子である時定が北条家の惣領となります。北条家の領地は狭く、時政はさらに庶流だったので、豪族と呼ぶにはほど遠い存在だったと指摘します。

「伊豆国の豪傑」という形容も多くの議論を呼んでいます。北条得宗家の身びいきをもってしても、はったりのような「豪傑」という記述しかできなかったのは、時政は無位無冠の低い地位に甘んじていたからだというのです。

時政が伊豆国の在庁官人であったかどうかについても、専門家の意見は分かれているようです。在庁官人とは諸国の国衙(地方行政機関)に現地採用された者で、中央政府から派遣される国守を補佐して国の諸業務を執り行います。有力な在庁官人は世襲され、上総氏、三浦氏などは、こうした在庁官人から成り上がり、国内に強大な権力と利権を有する大豪族に成長しました。時政については、有力者ではないにせよ国衙に無関係ではなかったろうとする好意的な説と、在庁官人ですらなかったと突き放す説があり、決着は付いていない状況です。

本記事では、無位無官の時政は国衙に出仕して低い地位の職に甘んじつつ、それでも出世の糸をたぐり寄せようと必死にもがいていた庶流の弱小武将として話を進めましょう。

当時、嫡男に生まれ損ねた男子が立身を望むのであれば、良縁を得て妻方の地位や血縁を利用して成り上がるのが手っ取り早い方法です。後に鎌倉幕府の実権を握る政子、義時の母は、伊豆国の有力武将伊東祐親の娘で、時政の最初の妻と見られます。次の妻は武蔵国の有力武将足立遠元の娘、そして三人目の妻が駿河国で大岡牧を知行する牧宗親の娘、牧の方となります(岡田清一『北条義時』ミネルヴァ書房)。

先妻ふたりは、いずれも東国に根を下ろす在地武将の娘であり、当時の武家社会では一般的な安全保障上の観点から結ばれた政略結婚です。近隣の有力者と血縁関係を結んでおけば、いきなり攻め滅ぼされる危険はないというわけです。ところが三人目に妻として迎えた牧の方は、先妻たちとは毛並みの違う良家の娘でした。単なる安全保障にとどまらず、大いなる出世に望みを託せる良縁だったのです。

(公開日:2023-04-15)