吾妻鏡の時代背景

『吾妻鏡』は鎌倉幕府の公式年代記として鎌倉時代末期(一三〇〇年前後)に成立したとされます。当時の政権を握っていたのは執権職を世襲する得宗家の北条一族であり、その編纂に当たっては北条家の主観や正当性を補強するための脚色が随所に施されているという認識が一般的です。

編纂当時は幕府の求心力が弱まり、御家人たちとの関係に動揺が生じていました。幕府体制を引き締める必要に迫られた北条家は、『吾妻鏡』を世に出すことで、御家人たちにあらためて幕府成立の歴史を思い起こさせ、武士の従うべき規範を再確認させたかったのでしょう。

『吾妻鏡』のパトロンである北条家にとっては、一介の在庁官人から身を起こした時政を祖とし、得宗家成立に至る系譜の正統性を主張する絶好の機会でもありました。『吾妻鏡』に初めて登場する板東武者が時政で、以仁王の令旨が頼朝に届けられた場面であるのは、時政が他の御家人たちとは決定的に異なる存在なのだと明確に主張しています。

頼朝を婿として身内人に招じ、生活全般の面倒を見てきた時政は、全国の源氏に平家打倒の挙兵を命ずる以仁王の令旨が頼朝の元へもたらされると、「頼朝を聟として以来、常に無二の忠節を頼朝に示していた」(『現代語訳 吾妻鏡』吉川弘文館より。以下、特に断らない場合は同書からの引用)と記されるように、頼朝の挙兵に是非なく従いました。頼朝もまた「真っ先に時政を呼んで令旨を開いて見せられた」と全幅の信頼を寄せます。

このように記述されると、頼朝は当初から絶対的な主君であり、時政は最も忠実な家臣だったと刷り込まれてしまいます。それこそが『吾妻鏡』の編纂意図だったといえるでしょう。ところが時政の言動について、疑念を抱かざるをえない記述が『吾妻鏡』のあちこちに紛れ込んでいるのです。いったいどういう訳なのでしょうか。

晩年の時政は後妻である牧の方と共謀し、三代将軍実朝を廃して娘婿である平賀朝雅を将軍に擁立しようとした罪で、伊豆国北条に蟄居させられました。この一件で北条家の正統は政子、義時の姉弟に継承されます。そうした流れを意識して編纂したなら、『吾妻鏡』に登場する時政は、純粋な忠義の人ではなく、権力を求める野心家だったのだと、言外に滲ませていたとしても不思議ではありません。

鎌倉幕府草創の端緒となった石橋山合戦から富士川合戦までにおける『吾妻鏡』に記された時政の不可解な言動を読み解くことで、頼朝が平家打倒に向けて始めた軍事作戦から抹消された歴史の一面を明らかにするのが本記事の狙いです。それに先立ち、治承四年に勃発した源平争乱を『吾妻鏡』に即して大まかに再現してみましょう。

(公開日:2023-01-04)