大蔵合戦と父子相克

鳥羽院の寵后である美福門院に近い藤原親弘が仁平二年(一一五二年)に相模守に就任すると、義朝は親弘と結んで糟屋荘(神奈川県伊勢原市)、山内荘(神奈川県鎌倉市山ノ内)の立荘に協力し、美福門院への荘園寄進に努めます。その働きを認められ、翌仁平三年(一一五三年)に義朝は下野守の座を射止めます。河内源氏から生まれた受領は五十年ぶりで、父為義の官職を越え、一気に嫡流の地位を脅す存在に成り上がります(以下、野口実『源氏と坂東武士』より)。

また、直属の郎党だった首藤氏を山内荘に、大中臣氏を六浦荘(神奈川県横浜市金沢区)に配し相模国の掌握を進め、任国の下野国では有力豪族の秀郷流足利氏を服従させ、上野国に寺尾城を構え勢力を張る河内源氏の新田重国には娘と義平との婚姻関係を結ばせ、同盟関係を築きます。

鳥羽院との関係を背景にのし上がる義朝に対し、嫡男に立てられた弟義賢は東宮帯刀先生とうぐうたちはきのせんじょうという栄職にあったのですが、罪人をかくまうという失態により解任され不遇をかこち、嫡男の座を弟の頼賢に譲り上野国に下向します。これは義朝の下野守就任と同年のことで、関東で勢力を拡大する義朝に対して、為義がくさびを打ち込んだとされます。この頃には摂関派の為義と院派の義朝は対立関係にあったのです。

上野国多胡郡に拠点を築いた義賢は、武蔵国最大の武士団とされる秩父平氏(畠山氏、河越氏、葛西氏、豊島氏、江戸氏、小山田氏など)の内訌に目を付け、関与を強めます。これは京武者が地方に勢力を扶植する典型的な手法です。秩父平氏の家督だった秩父重隆は、いずれも義朝と同盟を結ぶ藤姓足利氏や新田氏と対立関係にありました。彼らと対抗するための後ろ盾になってやると自分を売り込んだ義賢は、重隆の養君に収まって武蔵国比企郡の大蔵館(現、埼玉県比企郡嵐山町大蔵)に移り住み、義朝の支配する南関東の浸食を目論みます。

もちろん義朝は、義賢の敵対行為を容認するはずはありません。近衛天皇が久寿二年(一一五五年)七月に死去し、為義、義賢父子の頼みとしていた摂関家の忠実、頼長が失脚するのを見越したように、同年八月に鎌倉にあった義平は突如兵を率いて大蔵館を襲い、義賢と重隆を殺害します。これにより秩父平氏の家督は重隆と対立していた畠山重能に移り、同族間の抗争に介入した義朝は秩父平氏の家人化を果たしました。後に鎌倉幕府の重鎮となる畠山重忠は重能の息子です。

この大蔵合戦の結果、義朝の築いた関東の支配は対抗勢力のいない盤石な体制になったとされます。そして日本史上初めて洛内を戦場とした武力による権力闘争である保元の乱(保元元年、一一五六年)で、後白河天皇方に付いて勝利した義朝は、乱後の罪人処分で崇徳上皇方に付いた父為義と弟たち(頼賢、頼仲、為成、為宗、為仲)を処刑し、河内源氏嫡流の座を手に入れます(元木泰雄『河内源氏』)。

長年の夢を叶えた義朝にとっては、本来自分が継ぐべきだった嫡男の地位を回復したという意識があったのかも知れませんが、親族を皆殺しにして強奪した地位は呪われていたのでしょう。続く平治の乱を経ると、義朝の築き上げた関東の様相は一変します。

(公開日:2024-02-07)