安房国へ同道する三浦党

石橋山合戦に遅参し、戦わずして領地へ引き返した三浦党は、途中で平家被官の畠山軍から攻撃を受け、いったんは撃退しますが、援軍を得た畠山連合軍に八月二十六日、衣笠城を包囲されます。

何とか一日は持ち堪えた三浦党でしたが、その夜に城を捨て逃亡する決断を下します。後の戦国時代になると、最後まで城に立て籠もって討ち死にするのが武士の美学とされますが、平安末期の軍では城を捨て、いったん逃亡して再起を期すことは良くあったそうです。この時、三浦党当主の義明は、一人城に残って「今は私の老いた命を武衛(源頼朝)に捧げ、子孫の手柄にしたい」と感動的なスピーチをするのですが、本記事の主題からは外れますので、詳しくは他の書籍などを参照してください。

本記事が注目したいのは、義明が子息たちに語った「汝らはすぐに退却し、(頼朝の)安否をおたずね申し上げるように」という言葉です。嫡子義澄らは敵に気付かれぬよう夜間に衣笠城を抜け出し、平作川のほとりにある怒田城(現、神奈川県横須賀市吉井)へ移動したと思われます。当時、久里浜の海は内陸深くまで達していたとされ、怒田城跡の近くには今でも「船倉」という地名が残っているので、ここは三浦水軍の拠点だったと推定されます。翌二十七日、夜明けを待って三浦党は船に分乗して海へと漕ぎ出します。行き先について、『吾妻鏡』は「(三浦)義澄らは安房国へ赴いていた」と記しますが、少し検討が必要です。

三浦氏の一族は三浦半島の他に、浦賀水道をはさんだ房総半島西岸にも勢力を伸ばしており、安房国の安西、安東、神余の各氏は三浦氏の同族とされます(湯山学『相模武士 第二巻 三浦党』)。また、小坪坂合戦に加わったとされる金田頼次は現在の木更津市を領地とする武将で、三浦義明の婿だった縁から三浦党の要請を受け海を渡って出兵したのでしょう。

こうしたことから、三浦党が船で逃亡する先に安房国を選ぶのは自然なのですが、夜明けとともに久里浜を出港して安房国へ向かったとすると、『吾妻鏡』の記す内容と齟齬が生じるのです。同じ二十七日に土肥郷岩浦を出港した時政らの船団は「海の上で船を並べて行くうちに三浦の者たちと出会い、心中の心配事などを話し合った」とあります。

現在、久里浜と千葉県富津市金谷を結ぶ東京湾フェリーの航海速力は時速約二十四キロメートル(十三ノット)で、所要時間はおよそ四十分です。動力のない当時の和船の速力は時速約五~六キロメートル(三ノット)とされますから(高橋昌明『都鄙大乱』)、所要時間はおよそ三時間ほどとなり、三浦党が久里浜から真っ直ぐ安房国を目指したなら、途中時政らと海上で行き会うはずはありません。頼朝が上陸したとされる安房国猟島(現在の千葉県安房郡鋸南町竜島)は、久里浜から直線距離で約十五キロメートル、真鶴町からは四倍の約六十キロメートルです。

義澄らは頼朝の「安否をおたずね申」せという老父義明の言い付けを守り、船を西に向けて走らせ、小田原方面のどこかで頼朝との合流を目指したのです。海上は天候さえ良ければ視界は十五キロメートルほどですから、三浦水軍と時政らの船団が海上で互いを発見するのは容易だったと思われます。頼朝は一日遅れで安房国へ向かうと知らされた三浦党は、時政らに同道し、あらかじめ約しておいた上陸地の猟島に軍勢を展開し、周囲の安全確保に協力したのでしょう。

安房国に上陸した頼朝は、仲綱残党軍の時政らに加え、三浦党との合流に成功しました。八月二十九日のことと『吾妻鏡』は記します。そして三浦党を得たことで、頼朝の運命は大きく変わるのです。

(公開日:2023-11-25)