山木館襲撃における間抜けな時政

山木兼隆の暮らす館は「要害の地であり、行くにも帰るにも、人や馬の往来が大変なところ」だと『吾妻鏡』は描写します。そこで頼朝は、京下りの遊客である藤原邦道をスパイに仕立て、客人を装い兼隆の館を訪問させ、周囲の詳細な地形を絵図に書かせます。これに基づいた攻略計画を立て、決行の日を八月十七日寅卯の刻(午前五時頃)と定めました。

いよいよ決戦当日、前述したように佐々木兄弟の遅参により早朝の予定を夜襲(戌の刻、午後七から九時ごろ)に切り替えたのですが、いざ出陣という直前に頼朝と時政の間に奇妙な問答が始まります。

「今日は三島社の神事があり、多くの人々がやってきているので、きっと道は人であふれているでしょう。牛鍬大路を経由すると行き来する人たちに咎められてしまうので、蛭嶋通りを行くのがよいでしょう」

そう具申する時政に対し、頼朝は次のように応じます。

「思う所はその通りだ。しかし、大事を始めるのに裏道を使うことはできない。それに蛭嶋通りでは騎馬で行くことができない。だから、大道を用いなさい」

このやり取りについて、通説では頼朝の指揮官ぶりを賞賛する解釈が多いように見受けられますが、冷静に分析すると、時政の主張はどうにも間抜けすぎて理解に苦しみます。

牛鍬大路と蛭嶋通りの位置関係について、『静岡県の歴史 新版県史22』に掲載された「源頼朝山木邸攻略之図」を参照して述べれば、北条館があったとされる静岡県伊豆の国市寺家(円成寺跡)から北西方へ進み韮山城跡の南を通って山木館へ向かう直線ルートが蛭嶋通り、北条館から北上し伊豆箱根鉄道伊豆線の原木駅付近から東へ折れ牛鍬から大路を南下して山木館に至るコの字型ルートが頼朝の指定した経路となります。

牛鍬大路を行けば人々に見咎められると時政は忠告しますが、襲撃開始時刻はすでに亥の刻(午後九から十一時)に近かったでしょう。街路灯のない当時、いくら三島大社で神事があろうと、真っ暗な夜道に多くの人が歩いているとは思えません。

仮に軍勢の姿を誰かに見られたとしても、これから当国行政機関の長官を暗殺しに行くのですから、翌朝になれば国中に知れ渡るのは避けられません。たまたま通りがかった一般人に見咎められても、不都合なことはないはずです。

不審点はまだあります。当時の合戦は弓矢を主たる兵器として戦いますから、武者はたやすく射抜かれないよう総重量約四十キログラムもある鎧兜よろいかぶとを身に着けていくさに臨みます。小柄だった当時の日本人の体型からして、自身の体重とほぼ同じ重量の装備を背負うわけですから、とうてい徒歩では戦場まで移動できず、騎馬を用いるのは必然でした。騎馬の通れない裏道を使うなど、武者としてまったく論外の発想です。

そもそも山木館襲撃を決めたのは十三日も前のこと。その間、スパイを送り込んで敵陣の詳細な絵図まで手に入れ、入念な計画を練ってきたのです。時政ほどの武将が大事の直前に、人に見られて困るだの、裏道を使ったらどうかなど、あり得ない忠告を言い出すほど間抜けなはずはありません。

この頼朝と時政の問答は、頼朝の指揮官ぶりを強調するため、『吾妻鏡』の編者が挿入した虚構と見て間違いないでしょう。では、頼朝が指揮官でないなら、誰が軍大将だったのでしょうか。それを推測できる記述が、この直後に出てきます。

(公開日:2023-04-01)