幸せ者だった源頼政

吾妻鏡』の冒頭、すなわち治承四年(一一八〇年)四月九日条は、次の一文で始まります。

入道源三位げんざんみ頼政きょうは、平相国しょうこく禅門清盛を討ち滅ぼそうと兼ねてから準備していた。

源平争乱(学界では「治承・寿永の乱」と言うそうです)は、源頼政による平清盛の打倒計画として始まったのだと宣言します。

頼政は、後の鎌倉幕府初代将軍頼朝と共通の祖先清和天皇の末裔にして、武門源氏と呼ばれる一族です。清和天皇から三代の孫で摂津国多田地方(現在の兵庫県川西市)に勢力を扶植した満仲に頼光、頼親、頼信と名付けた三人の息子があり、摂津にとどまり京都御所の警固を務める大内守護を家職とし、摂津源氏と称される頼光の家系に生まれたのが頼政です。

一方の頼朝は、河内源氏と称される頼信の家系で、東国や奥州へ勢力拡大を図り数々の武勇で名を馳せた頼義、義家を輩出しますが、平治の乱(一一五九年)で清盛に敗れた河内源氏は壊滅し、頼朝は伊豆国へ流刑となり二十年間雌伏の日々を送ります。

平治の乱後、頼政は政界で権力をほしいままにする清盛とは良好な関係を築き、本職の大内守護を淡々とこなしつつ、和歌の才を生かして宮廷内の人脈を広げ「大過なくささやかに生きて」(上横手雅敬『平家物語の虚構と真実 上』はなわ新書)、六十八歳で正四位下を叙勲します。

父仲政は五位どまりだったので、大した武功もない頼政の昇進は過分の栄誉だったといえます。それから七年後、当時としてはかなり長寿の七十五歳になった頼政は、清盛の推挙を得て武門源氏では最高となる従三位に叙されました。頼政の異例といえる昇進について『平家物語』「ぬえ」の段は「のぼるべきたよりなき身は木のもとにしゐをひろひて世をわたるかな」という和歌を詠んだからという話を載せます。椎の実「しゐ」に「四位」を懸け、四位止まりでそれ以上昇進できない吾が身を哀れんでみせるこの歌は、自分自身を笑いものにする英国流の成熟したユーモアが感じられます。

この歌を伝え聞いたと思われる清盛は、頼政を哀れんで推挙したと『玉葉』は伝えます。その裏には、平治の乱以降の二十年間、平家に忠実だったことへの感謝があったとする説(多賀宗隼『源頼政』吉川弘文館)から、平家一門だけが昇進を繰り返すと風当たりが強いので、頼政を昇進させて源氏と平家が並び立って王家を守っているのだという体を繕ったとする説(永井晋『源頼政と木曽義仲』中公新書)もあります。

この時すでに重い病を得ていた頼政は、翌治承三年十一月、現世に思い残すこともなくなり、宿願だった出家を果たします。彼の通称である「入道源三位にゅうどうげんざんみ」には、望外の出世を遂げ、仏門に身を投じて心安らかな入滅を願うばかりの世捨て人という響きが感じられます。

頼政は平治の乱後に伊豆国の知行国主となり、子息仲綱を国守に据えてこの地を経済的な基盤とするほか、丹波国五箇荘および若狭国宮河保も知行していました(『平家物語』「鵺」の段)。嫡子仲綱のほか、実子でいずれも後の鎌倉幕府御家人に登用された頼兼、広綱、養子に迎えた兼綱(検非違使大夫尉)、仲家(源義賢の子息)、娘で歌人として名を成した二条院讃岐と、家を継承する子女にも恵まれました(生駒孝臣『治承~文治の内乱と鎌倉幕府の成立』「源頼政と以仁王」清文堂)。

ここで『吾妻鏡』の冒頭に戻れば、これだけの幸福を手に入れた老将が、なぜ自分の出世を後押ししてくれた清盛を「討ち滅ぼそうと兼ねてから準備していた」のか、まったくのところ理解に苦しみます。しばらく、この謎の解明に取り組む必要があるでしょう。

(公開日:2023-04-22)