新田義重の見た東国の乱

『山塊記』は「平安時代末期の公卿中山忠親の日記」(『広辞苑』)です。治承四年九月七日条に、上野国の有力武将新田義重が忠親の兄花山院忠雅(平清盛とも)へ宛てた書状が記されます。

義朝子領伊豆国、武田太郎領甲斐国

義朝の子すなわち頼朝が伊豆国を、武田太郎すなわち信義が甲斐国を、それぞれ占領したという内容です。先に紹介した『玉葉』では頼朝の行状のみでしたが、『山塊記』では武田信義も甲斐国において反平氏の挙兵を遂げたというのです。

この書状には八月二十八日に飛脚を出国させたとありますから、甲斐国で発生した事象が上野国へ伝わるのに数日かかるとして、遅くとも八月二十三、四日には甲斐源氏による挙兵は実行されたことになります。伊豆国の挙兵は八月十七日ですが、両軍の挙兵が偶然同時期に重なったとは考えにくいので、あらかじめ合意した計画に沿って同時に挙兵したと見て間違いないでしょう。

書状を書いた新田義重は、頼朝、信義と同じ河内源氏の一族で、新田荘(現在の群馬県太田市西南部)を所領とする北関東でも有力な武将です。治承四年当時は在京して平家方として活動しており、書状の中で平家惣領宗盛の命により、東国の反平家勢力を追討するために下向したと述べています。

下向した正確な日付は不明ですが、やはり清盛から伊豆国目代有綱追討の命を受けて大庭景親が下向したのは八月初めで、同時期に他の東国武士も続々と領地へ戻っている(『吾妻鏡』八月二日条)ことから、義重もまた八月上旬には上野国へ帰郷したと思われます。

書状には八月二十三日の石橋山合戦についても言及があり、伊豆国流人兵衛佐(頼朝)と戦ったのは伊豆国伊藤入道および相模国大庭三郎で、合戦場所は相模国小早河(石橋山古戦場に北接する小田原市早川か)、北条次郎(宗時のことか)が討たれたこと、頼朝軍は残り少なくなるまで討たれ箱根山に逃れたことなど、『玉葉』に比べ正確かつ具体的な事柄が報告されています。

義重の領地である新田荘は甲斐国と地理的に近く、加賀美遠光の元服では義重が加冠役だったなど、「義光流の子孫三代(義清、清光、遠光)に対し、義家・義国・義重らが三代に渡って加冠を行った」(久保田順一『新田義重 北関東の治承・寿永内乱』戎光祥出版)というほど、新田氏と甲斐源氏は近しい関係でした。

甲斐源氏の内情に通じた義重が、伊豆国の頼朝(仲綱残党軍)と武田信義がほぼ同時期に挙兵したというのは、かなり信憑性の高い情報です。信義の乱が京の政界で注目されず、九月の時点で頼朝のみが追討の対象とされたことについては、伊豆国では目代殺害という凶事が起こったのに対し、甲斐国は後白河院の近親者が知行国主であり、国衙機構への襲撃は行われなかったからだとする説があります(西川広平、『甲斐源氏 武士団のネットワークと由緒』の「治承・寿永の内乱と甲斐源氏」)。

しかし、国家への反逆行為には至らずとも、平家に与する義重から見て「武田太郎領甲斐国」と言わしめるだけの平家に敵対する明白な示威行動があったのは間違いないでしょう。そして反平家の立場を鮮明にしたことは、義重と同じく東国の乱を鎮圧する任を帯びた大庭景親や長田入道に脅威を抱かせるに十分だったはずです。いや、東国武士団の実力を熟知する彼らには、伊豆国内の兵力は取るに足らないこと、しかし甲斐国の全土に割拠する源氏一族はその数倍もの強力な兵力を動員できることを認識していたはずですから、最も危険な反乱分子は甲斐源氏だと確信したに違いありません。

甲斐源氏に対する評価が定まったところで、いよいよ『吾妻鏡』に登場する甲斐源氏と東国平家軍の軍事衝突を検討していきます。

(公開日:2023-07-15)