時政に届いた驚愕の知らせ

時政が甲斐源氏の軍勢と共に宿営していた石和いさわ御厨へ、土屋宗遠が頼朝軍の最新状況を携えて九月二十四日に到着します。頼朝の託した命令について『吾妻鏡』の正史に従えば、頼朝は関東の軍勢を率いて駿河国へ向かい平家の来陣を待ち受けるので、甲斐源氏も時政の案内で黄瀬河のあたりへ進軍し合流せよ、というものでした。

しかし、実際に頼朝が平家を迎え討つために鎌倉を出陣したのは翌十月十六日、敵が駿河国手越駅(現、静岡市駿河区手越付近)に到着したとの知らせを受けてからでしたので、正史の語る頼朝の命令は虚構だと分かります。宗遠が時政に伝えたのは、良い知らせと悪い知らせが混在していたと考えられます。

良い知らせは、上総軍二万騎および千葉軍が頼朝のもとへ参上して帰順の意を伝えたこと。さらに武蔵国の武士団も加わる勢いであること。これを聞いた時政は、平家にはばからず流人だった源氏の貴種を婿に迎えた自身の選択は正しかったと感激したでしょう。

悪い知らせは、頼朝が仲綱残党軍からの分離独立を宣言し、甲斐源氏に合流する件は反故にしたこと。代わりに鎌倉を拠点と定め、自分を主君と仰ぐ大軍の将として一家を起こすつもりだという衝撃の内容でした。これを聞いた時政は、隊を離れた隙に指揮権を婿殿に乗っ取られたと憤慨したかもしれません。軒を貸して母屋を取られた時政の当惑した顔が目に浮かびますが、『吾妻鏡』はそのあたりのやり取りには、当然ながら一切触れません。

頼朝が鎌倉に新造の邸や氏神を祀る社を建て、妻政子と水入らずの時を過ごすなど、我が世の春を謳歌している頃、甲斐源氏は石和御厨を後にし、さらに南方の大石駅(現、山梨県富士河口湖町大石、『甲斐源氏』より)へ移動します(十月十三日条)。これは甲斐源氏の来襲に備えて駿河国衙軍が集結しているという情報を得て(十月一日条)、応戦体制をとったのだと考えられます。

そこへ駿河軍が富士野(富士山西側ルート)から進軍してくるとの情報が入り、甲斐源氏軍は翌十四日に合戦を挑む決断をします。北条父子のほか、仲綱残党軍の一員として石橋山合戦をくぐり抜け、富士山麓に身を潜めていた加藤太光員、加藤次景兼も合戦に加わったと『吾妻鏡』は伝えます。

駿河国目代の橘遠茂は甲斐源氏が駿河国を攻め落とす企みを抱いているとの情報を得て、十月初旬から駿河と遠江の国衙兵を徴集し興津(現、静岡県静岡市清水区北東部)に陣を構えていました。遠茂は京の平家中枢と緊密に連絡を交わして行動していたはずですので、維盛、忠盛、知度らを大将とする東国源氏追討軍が九月二十九日に京を出陣する予定だったのは知っていたでしょう。

頼朝挙兵の報は九月四日に福原の平清盛へ届けられ、翌五日には「頼朝及び与力の輩」を追討すべく官宣旨が発給されましたが、さらに翌六日には大庭景親らの官軍が凶賊らを敗走させたとの知らせも入り、京には安堵の空気が生まれます。安房国に逃れた頼朝が短期間に関東で大軍を編成した事実は、九月の時点ではまだ京に伝わっていませんから、平家軍は遠茂からの情報により、当面の危険分子は甲斐源氏であると判断して出陣したと思われます。

京からの援軍を待てば有利に戦えたにもかかわらず、なぜか遠茂は駿河・遠江の兵だけで甲斐国へ出陣しました。武功を独り占めしようと焦って飛び出してしまったのか、はたまた甲斐源氏の来襲が目前に迫りやむを得ず迎撃に駆り立てられたのか、その真意は今となっては知る術はありませんが、結果的に遠茂の判断は平家方にとって大きな痛手となります。

(公開日:2024-03-13)