東国平家軍の軍功

仲綱残党軍が伊豆国で挙兵した治承四年八月十七日の時点で、すでに相模、武蔵、駿河の平家軍は、以仁王の令旨を受け取った東国源氏の中で最も危険な勢力と見られていた甲斐源氏に先制攻撃を仕掛けるため、大庭景親および橘遠茂を指揮官とする組織的な軍事行動を開始していました。仲綱残党軍にとっては最悪のタイミングの挙兵だったわけです。もし挙兵時期を数日早く設定していれば、当初の計画どおり安田軍との合流に成功できたでしょうし、もし二、三日遅らせていれば、東西から平家被官の大軍が襲来しているのを察知し、挙兵自体を延期ないし中止できたでしょう。

平家側の視点から見れば、景親と遠茂は最良のタイミングで反乱軍への先制攻撃を仕掛け、結果として安田軍に損害を与え甲斐国へ退却させることに成功し、伊豆、相模両国の反乱勢力は石橋山合戦で徹底的に粉砕したのですから、充分すぎるほどの戦果を挙げたと評価できます。

ところで、『吾妻鏡』の語る石橋山合戦で以前から気になる個所がありました。それは夕刻にもかかわらず開戦に踏み切った景親の判断です。丸子川(現在の酒匂川)東岸に到達した三浦軍の存在に気付いた景親は、軍議で次のように言います。

「今日はすでに黄昏時になろうとしているが、合戦を行うべきである。明日になれば三浦の者共が(頼朝方に)加わり、おそらく破ることは難しいだろう。」

三浦軍の兵力について言及はありませんが、前日の二十二日条に三浦の武将たちは「数人の精兵を率いて三浦を出発」したとありますから、それほどの大軍だったとは思えませんので、三百騎くらいでしょうか。頼朝軍の三百騎を合わせても六百騎程度です。これに対する大庭軍は三千余騎、さらに南から迫る伊東軍三百余騎を加えれば五倍以上の兵力となります。それなのに三浦軍が加わると「破ることは難しい」という判断は弱気すぎるのです。

この点についても、本記事の仮説を用いればうまく説明できそうです。大庭軍は甲斐源氏を叩くために兵を集めていたのであり、石橋山合戦の前日である二十二日早朝から俣野景久を先頭に続々と兵を御坂路へ送り出していたとすれば、丸子川西岸に残っていた兵力は相当数減少していたと考えられます。景親は強敵の甲斐源氏との合戦に投入する戦力を確保するため、最小限の兵で仲綱残党軍を討伐したかったのでしょう。

しかし、この判断が頼朝を取り逃がす結果につながったのですから、景親にとっては痛恨の判断ミスとなりました。もし一日待って、伊東軍との挟撃体制を築いてから開戦すれば、頼朝を箱根山中で見失うことはなかったかも知れません。それはさておき、石橋山合戦に勝利した景親は軍事行動の仕上げとして、相模国最大の勢力を誇る三浦党の制圧に動きます。

(公開日:2023-10-01)