甲斐国に執着する敗残兵たち

頼朝を守護すべき六名の武将たちが主君を見捨て、甲斐国へ向かおうとしていた北条時政の供を申し出た場面について、引き続き考察を進めます。

「供をする」という表現について、『吾妻鏡』が後年に編纂されたという事情を踏まえ、北条家に対する特別な配慮(敬語を使う)に起因したものだと考えれば、時政と他の武将との上下関係に関する不自然さは理解できます。

例えば時政を「北条殿」、義時を「四郎主」と記述し、北条家の者を他の武将より一段高く扱うのは『吾妻鏡』の流儀ですから、それに沿って解釈するなら、対等な関係として「同行したい」と言った言葉を「お共したい」と編者が勝手に書き換えたと考えられます。

頼朝軍の面々は大将を土肥実平に預け、自分たちは別行動で甲斐国へ向かおうとしていたことになりますが、いったい甲斐国に何があるというのでしょうか。敗走中であるこの時点で、甲斐源氏に援軍を求めるのは、地理的にも時間的にも現実的ではあり得ません。

しかし、命を惜しんで戦場から逃走するのは、武士としての面目を潰す行為に他なりません。北条家が編纂した『吾妻鏡』に、時政、義時の不名誉な行為を書き残し、末代に恥辱をさらす訳はないですから、保身のための甲斐国行きではなさそうです。

むしろ、こうした行動が『吾妻鏡』に堂々と記載されているわけですから、頼朝は彼らが甲斐国へ向かうことを容認していたとも考えられます。頼朝は平家を討ち滅ぼさんと挙兵したとする通説と、甲斐国を目指す時政らの行動は、どうすれば整合するでしょうか。

この疑問は後の検討課題としていったん保留し、まずは『吾妻鏡』の記述に沿って六名の敗走者たちのその後を確認します。

時政との同行を求めた景員たちは、「それはいけない」とあっさり断られ、「早々に頼朝をお探し申せ」と諭されます。時政の下命を素直に受け入れた六名は、「数町の険しい道をよじ登ったところ」(一町は約一〇九メートル)にいた頼朝と実平を見つけ、ここでもまた供を申し出ます。すると今度は実平に、これだけの大人数では敵に見つけられる、頼朝は自分が隠し通すからといわれて、追い返されてしまいます。彼らは落ち武者となり、ちりぢりに分かれてその場を離れました。

加藤五景員と子息の光員、景廉らは、それより三日間箱根山中に逼塞ひっそくして食料も気力も尽き果てました。老齢の景員は走湯山(熱海市の伊豆山神社)で出家し、兄弟は甲斐国へ向かいました。やはり彼らも北条父子同様に、敗走後は甲斐国に希望を見いだしていたようです。兄弟は落ち武者狩りに追われ、いったん離ればなれとなったものの、駿河国大岡牧(時政の後妻、牧の方の実家がある)で再会を果たし、「富士山麓に引きこもった」と二十八日条は伝えます。

(公開日:2023-03-11)