秘せられた仲綱残党軍の受難

治承四年八月十七日に伊豆国目代山木兼隆館を夜襲した仲綱残党軍は、翌十八日は兵士の休養に充て、かねてより甲斐源氏安田軍と示し合わせていた計画に従い、十九日に黄瀬川宿へ兵を進めました。途中、三島にあった伊豆国府で平家の息がかかった京下りの官人を追放するという示威行動もしたでしょう。

仲綱残党軍は遅くとも二十日には黄瀬川宿に兵を駐屯させ、食料などは大岡牧を所領とする牧宗親から調達し、同盟軍の到着を待ちます。ここで安田軍と合流したら、次の目標である駿河国の攻略を目指し、東海道を攻め上る計画でした。

ところがここで想定外の事態に直面し、仲綱残党軍は黄瀬川宿からの撤退を余儀なくされます。なぜか本拠地である北条館へは向かわず、彼らは東へ兵を移動させました。そして二十三日深夜に石橋山へ至るのですが、この慌ただしい動きは退却ないし逃亡と呼ぶにふさわしい迷走ぶりです。もちろん『吾妻鏡』の語る正史では、この間に起きた事象を表沙汰にはできなかったので、三浦党と合流するためだったなどという苦しい嘘を並べたのです。

それでは二十日の黄瀬川宿で何が起きたのでしょうか。本記事で積み重ねた考察に従って推測すれば、「そこに平家軍が来襲した」となるでしょう。この時点で大庭軍はまだ丸子川周辺(現在の神奈川県小田原市)に集結しつつある状況ですから、消去法でいけば駿河国目代橘遠茂の率いる軍勢だったに違いありません。

平宗盛の被官だったと思われる遠茂は、大庭景親と並んで東国の反乱を鎮圧する任を負う平家の重要な戦力でした。遠茂の領地は駿河国府の置かれた安倍郡(現在の静岡県静岡市)とされ、近くには同国有力武将の長田入道も居住していました。他にも国衙軍として源氏方と戦った武将に岡部五郎、荻野五郎、阿佐摩二郎などの名前が認められるといいます(杉橋隆夫『静岡県の歴史』)。

橘軍は俣野軍と連携して八月二十五日の波志太山合戦に参戦していますから、富士山北麓に向けて東海道を行軍する途中、黄瀬川宿に集結していた仲綱残党軍に遭遇したと思われます。両軍に武力衝突があったかどうかは不明ですが、『吾妻鏡』八月二十日条には土肥郷へ付き従ったとされる武将四十六人の名が誇らしげに記されていますから、この時点ではまだ兵力の損失はなかったとすれば、仲綱残党軍は戦わずして退却したと考えられます。

退却先は彼らの本拠地である狩野平野方面となるのが自然なのに、方角違いの土肥郷を目指さざるを得なかった要因として考えられるのは、伊豆国で有力な平家被官とされる伊東祐親の存在でしょう。平家重恩の者と称される祐親は、山木館襲撃の報を受け、直ちに反乱軍追討の兵を発動したと思われます。

伊豆半島東側の伊東から出陣した伊東軍は、修善寺方面から下田街道を北上する最短ルートを進軍して北条館を制圧しました。伊東軍に本拠地を抑えられた仲綱残党軍は、仕方なく東方向へ、つまり伊豆山神社方面(現在の静岡県熱海市)を経由して土肥実平の居城があった土肥郷へ向かう以外の選択肢はなかったと推定できます。土肥郷を通り過ぎて石橋山へ至ったのは、背後から伊東軍に追い立てられ必死に逃亡したと考えれば、激しく雨の降る深夜まで行軍した理由に納得がいきます。

(公開日:2023-09-17)