空白の二日間に起きたこと

吾妻鏡』の記述によれば伊豆国目代の山木兼隆に夜襲をかけた頼朝軍は、翌十八、十九日の丸二日間、これといった軍事行動をとりません。そして二十日、到着の遅れていた三浦党の軍勢と合流するため、伊豆国を出て相模国土肥郷(現在の神奈川県足柄下郡湯河原町および真鶴町付近)へ向かったとします。

京の六波羅邸に居を構える平家一門を打倒するのが挙兵の目的ですから、逆方向の東へ兵を展開するのは予定どおりの行動だったはずはありません。結果的に東行した事実を当初の予定どおりだったかのように記述するのは『吾妻鏡』の曲筆だと見て間違いありません。八月二十日条を確認しておきましょう。

三浦介義明の一族をはじめ、以前から(頼朝に)同意する意思を示した武士がいたのだが、今に遅参している。これはあるいは海路を隔てて風波を凌ぎ、あるいは遠路ということで苦労しているからであろう。そこで武衛(源頼朝)は、まず伊豆・相模両国の御家人だけを率いて伊豆国を出て、相模国土肥郷に向けて出発された。

この翌日は記載はなく、翌々日つまり二十二日条には、三浦義澄ら三浦党の武将が「三浦を出発してこちらに向かったという」とあります。これらの記述をもって、通説では頼朝軍は相模国最大の兵力を持つ三浦党との合流を目指したとするのですが、落ち着いて検討すれば、それはあり得ないと気付きます。

最も気に入らないのは、いくさに遅参した家人(三浦党)のために大将(頼朝)が自ら全軍を率いてお出迎えに向かったとする解釈です。古今東西を見回しても、これほど家来思いの心優しい殿さまは聞いたことがありません。普通の感覚なら、飛脚を送り、早く来るよう叱りつけるでしょう。

百歩譲って頼朝は世にも希な心優しい大将だったとして、相模国土肥郷で無事に三浦党と合流できた後、どのような軍事行動を予定していたのでしょうか。肩を叩き合って再会を喜ぶような状況ではありませんし、平家打倒のため元来た道をとって返し京を目指すのだとしたら、土肥郷までの移動は完全な無駄足です。かといって土肥郷に兵を駐留させ籠城する戦略上の利点は見当たりません。大庭景親が君臨する相模国に、反乱軍の安住できる地はないのです。

頼朝軍が二十日に伊豆国を出たなら、遅くとも二十二日には土肥郷に到着しているはずですが、『吾妻鏡』には軍の所在地について何の言及もなく、翌二十三日深夜に土肥郷から十キロメートルほど北上した地点の石橋山に陣を構えたというのですから、まぎれもなく予定外の行動だったと判断できます。

『吾妻鏡』の記述に沿って見ていくと、山木館襲撃後に頼朝軍のとった行動は支離滅裂で理解不能ですが、本記事の主張するように、時政を指揮官とする仲綱残党軍の行動だったと想定すれば、空白の二日間を含めた諸事を筋道立てて説明できます。

(公開日:2023-08-27)