緊張関係にあった以仁王と清盛

六条天皇の後継を争う以仁もちひと憲仁のりひとの動きを年代順に整理してみれば、まさに両者のデッドヒートと呼べる動きです。

永万元年(一一六五年)六月二十五日六条天皇即位
同年七月二十八日二条天皇死去
同年十二月十六日以仁元服
同年十二月二十五日憲仁親王宣下
仁安元年(一一六六年)十月十日憲仁立太子

憲仁を推す清盛に対し、以仁を援護したのは八条院に集う一派でした。八条院とは、鳥羽院の愛娘暲子しょうしの院号で、生涯独身を通した彼女は、後白河より六歳年上の異母姉です。鳥羽院の死を受け二十一歳で出家し、政局には無関心を通して静かに暮らしたそうですが、両親から莫大な所領を譲与され、経済的に余裕があったこともあり、守仁もりひと(二条天皇)、以仁など多くの人材と猶子(一代限りの養子)関係を結び、彼らの生活を支援しました。また、鳥羽院時代に仕えた公卿、殿上人との交流もあり、二条天皇から六条天皇へと続く鳥羽院系統の拠点となりました。

後白河は、父鳥羽院から天皇の器にないと見なされ、鳥羽院の寵愛する美福門院得子の養子守仁(二条天皇)へ譲位する前提で、いわばワンポイントリリーフ的に即位した天皇であり、鳥羽院が実子ながら毛嫌いする崇徳上皇の子重仁しげひとへ皇位を渡さないために利用されたのでした。

鳥羽院亡き後、予定どおり二条天皇に譲位して院政を始めた後白河にとって、皇位を鳥羽院系統に守られた六条天皇から以仁に継がせるより、自身が寵愛した滋子しげこ(清盛の義妹)の所生であり、意のままに操れる憲仁に継がせたい。そのためには清盛と手を結ぶ必要があったのです。

憲仁が皇太子となった二年後の仁安三年(一一六八年)、清盛は重病に倒れます。六条天皇の後継を決めないまま憲仁の後ろ盾である清盛が死去すれば、八条院派の推す以仁が皇位に就いてしまいます。焦った後白河は清盛と謀り、六条天皇を退位させ、高倉天皇(憲仁)を即位させました。これで以仁が皇位に就く夢は打ち砕かれたのです。

その後、共闘関係にあった後白河と清盛の関係に亀裂が入り、未遂に終わった清盛打倒計画(鹿ヶ谷事件)を経て、両者の関係は修復不能となり、ついに治承三年(一一七九年)十一月、清盛は数千の兵を率いて上洛し、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉し院政を停止させました。さらに院の側近四十名を罷免したほか、ライバルだった以仁に対しては、かつての師最雲から譲られた荘園を没収しました。

翌治承四年(一一八〇年)二月、清盛は自身の娘徳子と高倉天皇の間に生まれたわずか三歳の言仁ときひと親王を即位させ、安徳天皇を誕生させます。天皇の外祖父の地位を手に入れた清盛は絶大な権力を手に入れたのですが、武力によって法皇の院政を否定する前代未聞の蛮行に、貴族や武士の不満は大いに高まってゆきます。

長々と王家の権力闘争を追ってきたことで、ようやく以仁王が清盛に対して抱く怨念を理解できました。後白河法皇を幽閉した清盛は逆賊であり、これを成敗して皇位を奪う大義名分も立ちます。まさに以仁王は、清盛打倒計画の首謀者にうってつけの人物でした。再び上横手氏の『平家物語の虚構と真実』から一節を引用します。

頼政に謀叛の動機がなく、以仁王に動機が多いとすれば、『平家物語』にいうように頼政が以仁王をそそのかしたのではなく、以仁王が頼政を誘ったことになる。

従来の頼政首謀説を否定してみせるこの主張は、大いに傾聴すべき卓見といえるでしょう。しかし、高名な歴史学者の説に異を唱えるのはたいへん僭越なのですが、いまひとつ腹落ちしないのです。

現世に未練のない病身の老将が、皇位を継ぐ可能性を失った王族に誘われたからといって、「はいかしこまりました」とためらいもせず謀反計画に同意するでしょうか。武士として最後にひと暴れし、歴史に名を残してから死にたいなどという自己愛に流されるような凡夫とは、頼政は似ても似つかない性格だったと思えるのです。

(公開日:2023-04-29)