頼朝の挙兵

鎌倉を居館とし、河内源氏による関東の秩序を再興するよう求められた頼朝は、正直なところ、相当に戸惑ったろうと想像します。なぜなら安房国安西景益邸にあった頼朝は、いまだ摂津源氏仲綱が組織し伊豆国で挙兵した平家打倒軍の一構成員に過ぎず、頼朝の下に参じた武士団は自動的に仲綱残党軍の下部組織として内包される宿命にあったからです。

指揮官たる時政の描く軍事作戦は、頼朝の協力により可能なかぎり残党軍を増強しつつ、甲斐源氏と連携して当面の敵である相模国の大庭景親、駿河国の橘遠茂の両軍を打ち破り、東海道を攻め上って平家と対決するというものです。これに対して千葉常胤は、源平の直接対決など後回しでよいから、自分たちの所領を守るため、関東にはびこる平家勢力を一掃してほしいと言うのです。

常胤の言葉を伝えた使者の安達盛長に対し、頼朝がどのような反応を示したのか、『吾妻鏡』には具体的な言及はありません。代わりに、盛長が千葉から帰着した翌々日の九月十一日、『吾妻鏡』は頼朝が安房国丸御厨を巡検したと記します。

この地は鎌倉の館を譲り受けた源頼義が奥州合戦の功により「はじめて朝廷から恩賞として与えられた土地」でした。これを相伝した義朝は頼朝の昇進を願い、この土地を伊勢太神宮に寄進し、めでたく頼朝は蔵人に補任されたというエピソードを語った後、『吾妻鏡』は次のように記します。

そこで今、昔を懐かしみ、その土地においでになったところ、二十余年前のことを思い出し、涙を流されたという。

切迫した戦況のただ中にあって、昔を思い出して涙するなど、頼朝という人物はずいぶんと感傷的な性格なのだなあと考えることもできますが、鎌倉入りの打診を受け、平家打倒を優先させるべきか、父の遺した支配地回復に向かうべきかを悩んでいたとすれば、この涙の意味は、清盛に対する憎しみよりも、亡父に寄せる思慕の情が勝った結果だったと解釈できるでしょう。つまりこの時、頼朝は鎌倉入りを決断したのです。

頼朝が河内源氏義朝流鎌倉家の再興を決意したことは、同時に摂津源氏頼政流仲綱家の始めた平家打倒計画から離脱することを意味します。伊豆国での挙兵当初から頼朝へ帰参した土肥実平、岡崎義美、三浦党などの相模武士や、これから加わる上総氏、千葉氏にとれば、義朝時代に獲得した利権を取り戻せるのですから、大歓迎に違いありません。

しかし、伊豆国の武将らは頼朝の豹変にひどく戸惑ったでしょう。頼朝は伊豆国の勇士を譜代の御家人として尊重するつもりでいたことは後の歴史が証明しますが、指揮官の時政を不在中に軍事作戦の主役から脇役へと降下させ、頼朝が自ら指揮を執ると宣言したわけですから、わだかまりがなかったとは言えないはずです。それでも伊豆国の武将らは頼朝の主張を受け入れたのは結果的に正しい判断でした。

丸御厨を巡検した翌々日、頼朝は相模国鎌倉を目指し進軍を開始します。『吾妻鏡』の正史は頼朝が挙兵を決意した日を以仁王の令旨が届いた四月二十七日(ないし、源氏累代の御家人を召喚した六月二十四日)としますが、本記事は安房国に渡った頼朝が上総氏、千葉氏の帰参を得て亡父義朝の居館を目指した九月十三日を頼朝挙兵の日と考えます。頼朝を指揮官とする軍事行動は、この日から始まったのです。

安房国府近くの安西邸を出発した頼朝軍は、房総半島の西側を北上し、上総氏、千葉氏の軍勢を吸収しつつ、上総国府(千葉県市原市能満)および下総国府(千葉県市川市国府台)を順に制圧し、十九日には下総と武蔵の国境まで到達します。その兵力は、『吾妻鏡』の記述によれば安房、上総、下総、そして伊豆、相模も加え、「軍勢二万騎」に膨張しました。

翌二十日、相模武士の土屋宗遠が、甲斐国にいるであろう時政にこの間の事情を伝えるため、頼朝の使者として陣を出発しました。

(公開日:2024-03-03)