頼朝の決意は空回り

六月十九日、京の官吏である三善康信は、伊豆国北条館に暮らす頼朝の元へ使者を送り、平家の追討使が差し向けられるので早く奥州へ逃げるよう秘密裏に伝えたと『吾妻鏡』は記します。康信は母親が頼朝の乳母の妹である縁から流人頼朝へ忠義心を抱き、毎月三度使者を伊豆国へ送り京の情勢を知らせていました。

康信の使者(弟の康清)は北条館に三泊した後、二十二日に京へ戻ります。奥州へ逃れるべきだという康信の助言に対し、頼朝は逆に平家との対決を期し「御書を送って源氏累代の御家人たちを呼び寄せることとした」と二四日の条に頼朝の決意を記します。命を懸けた大事業を決断するのに要したのはわずか五日でした。

敵は官軍として圧倒的な兵の動員力と同族の固い結束を有する平家一門です。これに対し、以仁王の令旨に呼応して兵を挙げる源氏一門はどれだけあるのか、この時点ではっきりした情勢はつかめなかったと思われます。なにしろ大義の拠り所とする以仁王は謀叛の廉で誅殺され、首謀者であった頼政もまた首を取られ、平家打倒の機運は出鼻をくじかれた格好でした。

はたして頼朝が挙兵したからといって、他の源氏は首尾よく後に続くでしょうか。流人の身である頼朝は、もとより失うものを持たない境遇ですから、一世一代の大博打に乗り出すのは潔いかも知れませんが、自ら獲得した所領を経営して恙なく暮らしている在地領主たちにとって、源平の争乱に参加する積極的な理由はあるのでしょうか。

使者が伝えたとされる京の情勢に、反平家の志をもつ源氏の動向が含まれていたのかは不明ですが、奥州への逃亡を注進するための使者だったわけですから、反平家勢力の一斉蜂起を期待できる状況ではなかったと想像できます。それでもわずか五日で挙兵の判断を下した頼朝の心情は、おそらく万に一つしかない可能性に賭けてみようという決死の覚悟だったのでしょう。

流人として二十年の雌伏を余儀なくされた頼朝にとり、喫緊の課題は一人でも多くの兵を集めること。挙兵を決意した二十四日、前述したように頼朝は「源氏累代の御家人たちを呼び寄せ」ます。ところが、かつて頼朝の父義朝が鎌倉に居を構え南関東で権勢を誇っていた頃に付き従った御家人たちは、表向きは頼朝の命に従うふりをしつつ、すぐに兵を起こすそぶりは見せません。なかには、わずかな兵力で平家に対抗するなど身の程知らずだと、使者に罵声を浴びせる波多野義常や山内首藤経俊といった武将もいました。

期待した兵力には遠く及ばない状況で無為に七月は過ぎ、八月になると状況は一段と厳しさを増します。

(公開日:2023-01-28)