頼朝軍の目指した進軍先

首尾よく伊豆国目代を血祭りに上げ挙兵の初戦を飾った頼朝は、翌十八、十九日は兵を北条館に留め、援軍の到着を待ちました。ところが当てにしていた相模国きっての武士団三浦党など「以前から(頼朝に)同意する意思を示した武士がいたのだが、今に遅参している」と、引き続き兵力不足の状況が続きます。

頼朝挙兵の報は、伊豆国の平氏方有力武将である伊東祐親はもとより、相模国にあって頼朝の挙動に警戒の念を抱く大庭景親にも直ちに届けられたはずです。さらに隣国の駿河国は、清盛の嫡男宗盛の知行国で国守は平維時、目代は橘遠茂という平家の有力武将で固められていました。

現在の視点からすれば、これだけ敵勢力に囲まれた状況で、よく挙兵を決意したものだと、その無謀さに呆れかえります。しかし頼朝には何かしら状況を打開する策があっての挙兵だったはずです。

源平争乱を勝ち抜き、後白河法皇との政治的駆け引きを有利に運び、関東に武家政権を樹立するまでの行動を見れば、合理的な勝算もないまま、その場の勢いで軍事行動に出るような軽率さは、およそ頼朝らしくありません。山木兼隆を討ち取った次の展開は、あらかじめ十分検討され、一定の勝算があって実行されたと考えるべきでしょう。

その行動とは、「まず伊豆・相模両国の御家人だけを率いて伊豆国を出て、相模国土肥郷に向けて出発」することでした。なぜ、土肥(現在の神奈川県真鶴市)なのでしょうか。その目的を『吾妻鏡』は黙して語りません。通説では、相模国三浦党との合流を目指したとされますが、この点については後に検討を加える必要があります。

ひとまずは、頼朝軍の行動を『吾妻鏡』の記述に沿って追跡してみましょう。二十日に土肥郷へ向けて出発した頼朝軍の武士は四十六名。『吾妻鏡』はその高名を誇らしげに記載します。

北条館を発った三日後の二十三日は「夜になって降り注ぐように激しく雨が降った」とあります。そして寅の刻、一行は「相模国石橋山に陣を構え」たと『吾妻鏡』は記します。寅の刻とは現在の午前三時から五時で、草木も眠ると表現される丑三つ時からおよそ二時間後、夜が明ける少し前のことです。

豪雨のなか夜を徹して行軍し、行き着いた先の石橋山とは、現在の神奈川県小田原市石橋の海岸近くと推定され、西湘バイパスの石橋IC南方に石橋山古戦場という石碑があります。当初目的地とされた土肥郷をすでに通り過ぎているのですが、『吾妻鏡』は口をつぐんでその理由を語りません。何かしら想定外の事態が起こり、目的地を変更したのでしょうか。

石橋山の地形は、相模湾に面した山地が海に迫り、傾斜地を利用したみかん栽培のさかんな地域です。今でこそ海岸沿いに国道一三五号線が開通していますが、一二世紀末には深い山林の中を細い生活道が続いているに過ぎなかったと想像できます。当時の戦闘形態は馬に跨がり矢を射る騎射戦ですから、こんな山深い傾斜地を選んで軍をするはずはありません。

『吾妻鏡』は頼朝に気を遣って「陣を構えた」と記しますが、実際には夜通しの行軍に人も馬も疲れ果て、人目につかぬ山中で仮眠を取ることにした、という状況ではなかったでしょうか。

(公開日:2023-02-18)