平家討伐の令旨はまず頼朝へ

『吾妻鏡』は治承四年(一一八〇年)四月九日の条から書き起こされます。源頼政が子息仲綱を伴い後白河法皇の第二皇子である以仁王(もちひとおう)を密かに訪ね、かねてより準備していた平清盛討伐計画を打ち明け、安徳天皇に代わり王位に就くよう奏上すると、以仁王は東海東山北陸三道諸国の源氏に対し決起を促す令旨(りょうじ)を下しました。この令旨は源行家に託され東国の源氏諸家に伝えられましたが、以仁王は最初に頼朝を訪ねて令旨を見せた後、他の源氏に伝えるよう「よくよく仰せられた」と記します。

続く二十七日、京を発った行家は頼朝が暮らす伊豆国北条館に到着しました。以仁王の令旨を見た頼朝は「平氏討滅のための義兵を挙げようと考えた。(中略)そこで頼朝は、真っ先に時政を呼んで令旨を開いて見せられた」とあります。

ここに北条家の主張する鎌倉幕府の起源が明示されます。すなわち、平家討伐は頼朝の発案には依らず、天皇家からの要請によって始められた公の任務でした。

この前年、清盛はクーデターにより治天の君として院政を行っていた後白河法皇を鳥羽殿に幽閉し院政を停止させます。さらに以仁王の弟である高倉天皇を退位させ、自身の孫である安徳天皇を践祚(せんそ)させて政権を掌握しました。これによって以仁王は皇位継承の望みを絶たれます。

こうした背景をもつ以仁王の清盛討伐命令は、自身を天武天皇になぞらえて正当性を主張するとともに、父後白河法皇の解放と政権復帰を意図したものでした。もしこの企てが成功すれば、必ずや後白河法皇の信任を得て王位を継承できる、という確信があっての決断でした。令旨を受け取った頼朝は、これを大義名分として平家打倒の大事業に打って出ます。

さらにこの起源には、以仁王が平家討伐に動員する軍勢の筆頭として、頼朝を強く指名していることも注目できます。流人にして私兵を持たない丸腰状態の頼朝が、なぜ源平合戦の首班になり得ると以仁王が考えたのか、これについては後ほど詳しく検討する予定です。

頼朝は自身にもたらされた令旨を舅である時政に見せたと『吾妻鏡』は記します。つまり、鎌倉幕府の成立は、天皇家からの要請に基づき、頼朝と時政の共同事業として始められたと『吾妻鏡』は主張するわけです。

以仁王に王位奪取を勧めた頼政の清盛打倒計画は、東国の源氏に令旨が下されてから間もなく、五月十五日には令旨の存在が平家方に露見し、以仁王の元へ追捕の兵が送られます。頼政の急報を受け高倉御所を脱出した以仁王はいったん三井寺(滋賀県大津市の園城寺)に逃れた後、奈良の興福寺へ向かう途中、追討軍に囲まれ落命し、援軍に向かった頼政、仲綱も宇治での合戦で討ち取られます。

こうして以仁王の乱はあっけなく終結し、令旨を受け取った諸国の源氏は残らず追討すべしとの指令が平家より通達され、頼朝は絶体絶命の窮地に立たされます。

(公開日:2023-01-18)