東国における平家の後見人

『吾妻鏡』の八月二日条は、以仁王の乱を鎮圧するために在京していた大庭三郎景親など東国武士の多くが帰国したと記します。景親は罪を犯して斬首されるところを平家に助命された恩義により平家の被官となって以来、東国における平家の後見人として兵を招集、指揮する権限を与えられた存在でした。六月に三善康信が伝えたように、以仁王の令旨を受け取った源氏を追討するという平家方の方針が、現実となって動き出したのです。

景親の領地は相模国大庭(現在、藤沢市の大庭城址)ですから、近隣の武将に頼朝から挙兵を呼びかける書状が届けられたことは、すぐ耳に入ったでしょう。平家の命を受け、東国の治安維持に責任を負う景親にとり、頼朝の叛乱を鎮圧するために採るべき方策は、近隣武将たちを平家方に引き入れ強大な官軍を組織することでした。

いくさの勝敗はいつの時代でも兵力の多寡、つまりどれだけの兵力を組織できたかにより、戦闘を始める時点であらかた趨勢は決しているものです。『吾妻鏡』は八月九日の条に、景親が佐々木秀義に対して行った多数派工作のエピソードを記します。

近江国の住人だった秀義は、平治の乱で源義朝(頼朝の父)の味方として戦い、その後も「平家の権勢におもねらなかったために」近江国の所領を奪われ、やむなく相模国の武将渋谷庄司重国の食客として暮らしていました。景親は秀義を呼びつけ、在京中の出来事として、次のような話を聞かせます。

「北条四郎(時政)と比企掃部允かもんのじようが頼朝を大将軍として叛逆しようとしている」という重大な情報を長田入道が書状にしたため、平家の侍である上総介藤原忠清に託したと。忠清はその書状を景親に読んで聞かせ、これは尋常なことではないから、早く平清盛に見せなければと言った。

長田入道なる人物の系譜などは未詳ですが、後に平家方として駿河国目代橘遠茂の軍勢に加わり、甲斐源氏の武田・安田軍と戦った鉢田合戦で戦死しましたので、駿河国の住人と思われます。伊豆国での不穏な動きは、隣の駿河国まで漏れ聞こえていたわけです。ちなみに当時の駿河国は、清盛の嫡男にして家督を相続した宗盛の知行国でしたから、国内には平家与党に溢れていたことでしょう。

そして景親は、秀義の子息定綱が頼朝に通じていることを把握しており「当然用意をしておくべきであろう」と警告とも恫喝とも知れぬ言葉を秀義に投げ掛けます。これは明らかに、景親は遠からず頼朝一味に襲いかかる意思表明に他なりません。翌々日の十一日に定綱が北条館へ急行してこの話を頼朝に伝えました。危険はすぐそこまで迫っているのです。

頼朝とて手をこまねいて待っていたわけではありません。八月の時点で自分に命を預け、共に闘うと誓ってくれた御家人を頼みに、先制攻撃を敢行します。標的は伊豆国目代の山木判官兼隆です。

(公開日:2023-02-04)