惨敗した石橋山合戦

頼朝が「陣を構えた」二十三日は、すでに石橋山近辺に頼朝の叛乱を鎮圧すべく、大庭景親の招聘した軍勢が待ち構えていました。景親の弟である俣野五郎景久、河村三郎義秀、渋谷庄司重国ら平家被官の軍勢約三千騎とされます。

対する頼朝軍は十分の一の兵力しかない三百騎です。さらに背後からは平家被官の伊東祐親率いる三百余騎が接近していました。これだけ兵力の差がある上、山中の細い道を前後から挟み撃ちにされるのですから、頼朝軍は袋の鼠という表現がぴったりなほど、絶体絶命の状況にありました。

そこへ頼朝軍に加勢すべく相模国を横断してきた三浦党の軍勢が丸子川(現在の酒匂川)を挟んだ対岸まで達し、大庭軍の一味の家を焼き、その火炎を見せることで、敵に圧力をかけました。なお、平家物語の異本である源平盛衰記には、この日、丸子川は連日の大雨で水位が増し、三浦軍は渡河できなかったとあります。大庭景親はもし翌日になり三浦党が川を渡って背後から攻めて来ては面倒だと、夕刻にもかかわらず開戦を決断します。

日没までのわずかな時間でしたが、戦況はあっけなく大庭軍に傾き、頼朝に従う兵は風雨にさらされる中を敗走し、夜の闇を味方にかろうじて命を拾います。しかし息を継げたのはわずか数刻に過ぎません。翌朝、景親は頼朝の命を狙い、執拗に追っ手を差し向けます。

この八月二十四日に記述された頼朝、時政、そのほかの武将たちの行動は、『吾妻鏡』の中で最もドラマチックな場面として読み継がれています。同時に、『吾妻鏡』の内包する矛盾、隠蔽、曲筆が随所に現れる難解さを極めた場面でもあります。

本記事の目的は、まさにこの場面に凝縮された『吾妻鏡』の謎を解き明かすことですから、ようやくここからが本論になります。

『吾妻鏡』の詳細な検討に入る前に、本記事が取り上げる三つの謎を提示しておきます。

 一、平家打倒軍の大将は誰なのか。
 二、なぜ北条時政は甲斐国を目指したのか。
 三、兵を石橋山へ移動させた意図は何か。

この論点に着目し、いざ『吾妻鏡』の謎解きを始めましょう。

(公開日:2023-02-25)