忠臣たちの怪しい振る舞い

冷たい雨の降る夕刻、大庭景親率いる平家軍の急襲を受けた頼朝軍はさんざんに打ち負かされ、大将の頼朝は翌朝「杉山」に逃げ込んだと『吾妻鏡』は伝えます。現在の神奈川県足柄下郡湯河原町付近ではないかと推測されるので、石橋山古戦場から山中を十キロメートル近く南へ押しやられたことになります。ちなみに、湯河原町鍛冶屋に頼朝が身を隠したとされる「しとどの窟」があります。

再び迫ってきた大庭軍の追っ手に対し、「後方の峰に逃れ」た頼朝を守るため文字どおり矢面に立ち戦った武将として、『吾妻鏡』は加藤太光員、加藤次景廉、二人の父である加藤五景員、大見平次実政と兄の大見平太政光、佐々木四郎高綱、天野藤内遠景、同平内光家、堀藤次親家、同平四郎助政の名を列挙し、執拗に攻撃を仕掛けて来る軍勢を必死に防いだと語ります。そして「矢が尽きたので景廉が頼朝の馬のくつわをとって山深くに引き申した」。

頼朝の生命に重大な危険が迫りつつあるとき、「北条殿父子三人(時政・宗時・義時)は、景親らと戦われたため、しだいに疲労困憊し、山の峯に登ることができなかったので、従い申すことができなかった」と無念さを滲ませる記述を残します。

「景親らと戦われたため」とあることから、北条父子は頼朝を守る加藤父子らとは離れた位置にあり、大庭軍との合戦を繰り広げたと思われます。家臣が敵を食い止めている間、頼朝は山の峰を登って逃走したのですが、北条父子はそこで頼朝と行き別れになったという状況です。

敗走する軍団に統制の取れた行動などできるはずもなく、時とともに散り散りとなって崩壊していくのは当然のこと。頼朝とは最も近しい姻戚関係にあった北条父子でさえも、戦場の混乱にのみ込まれ、命懸けで守るべき大将を見失うのはやむを得ません。さぞかし断腸の思いであったでしょう。誰もがそう考える場面に、『吾妻鏡』は次の驚くべき記述を載せます。

景員、光員、景廉、祐茂、親家、実政は、(時政らの)供をすると申した。時政は「それはいけない。早々に頼朝をお探し申せ。」と命じられたので、彼らは数町の険しい道をよじ登ったところ、頼朝は倒れた木の上にお立ちになり、実平がその傍らに控えていた。

ここに名前の挙がった景員ら六名の武将は、つい先ほどまで頼朝を安全な場所へ逃走させるため、敵前に立ち塞がり、奮闘していた勇者たちです。彼らにとって命に代えて守るべきは、時政ではなく頼朝だったはずですし、ほんの少し前までは実際にそのような行動を取っていたというのに、なぜ大将である頼朝を見捨て、敗走する軍団から脱落しつつあった「時政らの供をする」と申し出たのでしょうか。

いったん頼朝を安全な場所に護送し、再び戦場に戻って北条父子を助けようとしていたのならともかく、「早々に頼朝をお探し申せ」という時政の言葉から、景員らもまた頼朝の行方を見失っていたことが分かります。時政の供をすると申し出た六名の武将は、時政が頼朝の代わりに指揮官となり、自分たちを導いてくれるとでも思ったのでしょうか。

(公開日:2023-03-04)