時政は指揮官なのか

頼朝を見失った六名の武将が時政の供をすると申し出たことが、当時の武家社会にとってどれだけあり得ない状況なのか、補足して説明しましょう。

後に成立した鎌倉幕府の御家人制は、各々の武士が頼朝と主従関係を結ぶことで成り立ちました。それは将軍と一対一の契約関係なのであり、将軍にはひれ伏しても、他の武士たちは自分と対等の関係に過ぎません。ましてこの時期にはまだ武家政権は成立していませんから、十三人の合議制と呼ばれた重臣や執権職、得宗家といった御家人の家格も生まれていないのです。

ただ各々の武士が頼朝との主従関係だけを拠り所に戦場へ赴いているのですから、もし頼朝が討たれるか、あるいは行動を共にできない状況に至ったのなら、その時点で戦闘を継続する理由は失われ、あとは己れの才覚と運を頼りに戦場から脱出し生き延びることだけが行動原理となるはずです。

他の武士からすれば北条父子は頼朝と姻戚関係を持つというだけで、自分より上位の存在ではありません。自分と同様に、頼朝と主従関係を結んだ対等の関係なのです。それなのになぜ、彼らは供をすると言い出したのでしょうか。

供をするという申し出に対し、時政は「それはいけない」と答えます。自分の命などどうなっても構わないから頼朝を守るのだ、という自己犠牲の精神を発揮し大将を擁護した美談と受け取ればそれまでの話ですが、とてもそうは思えません。

時政は「早々に頼朝をお探し申せ」と六名に命じます。命じる? なぜ時政は対等であるはずの武士に何かを命じられるのでしょうか。景員らの主君は頼朝ただひとりなのですから、時政ごときに何かを命じられる覚えはないはずです。

謎はまだ尽きません。疲労困憊して頼朝の後に続けなかった北条父子は、どこへ向かおうとしていたのでしょうか。

景員らには頼朝を探せと命じているわけですから、明らかに北条父子は別行動を取る気でいます。さらに、景員らは北条父子がこれから頼朝とは別行動を取ると知っており、自分たちもまた命懸けで頼朝を守る任務を放棄し、別行動に参加したがっているようにも受け取れます。彼らは負け戦に嫌気が差し、もう十分に頼朝への忠義を果たしたのだから、この先は自分の命を最優先しようと変心したかのようです。

吾妻鏡』にはこの少し後に、「北条殿(時政)と同四郎主(義時)は箱根湯坂を経て甲斐国へ向かおうとしていた」という記述が出てきます。もし景員らは北条父子が甲斐国への脱出を胸中に秘めていると知っていて、自分たちも甲斐国へ同行したいと申し出たとするならば、いくつかの疑問は解決します。

(公開日:2023-03-11)