北条父子の不可解な行動

 石橋山合戦二日目の八月二十四日に話を戻しましょう。六名の忠臣が実平に追い返された場面の後に、次のような記述があります(一部は先述)。

北条殿(時政)と同四郎主(義時)は箱根湯坂を経て甲斐国へ向かおうとしていた。同三郎(宗時)は土肥山から桑原へと降り、平井郷を通っていたところ、早河の辺りで(伊東)祐親法師の軍勢に囲まれ、小平井の名主紀六久重によって射取られた。

甲斐国を目指す北条父子は、なぜか嫡男の宗時は時政、義時とは別行動をとり、あえなく討ち死にしました。熱海から三島へ向かって西へ延びる道中の田方郡函南町に平井という地名が残り、JR東海道線の函南駅近くに北条宗時の墓があります。北条父子は二手に分かれ、父と四男が北回り(「箱根湯坂」は現在の箱根湯本から湯坂山への登山道)、嫡男が南回りで箱根山を迂回し、いずれも甲斐国を目指していたことになるでしょう。

そして『吾妻鏡』の記述に従えば、箱根湯坂から甲斐国を目指していた時政、義時父子は唐突に「夜になって、時政が杉山にいる頼朝の陣に到着された」とあります。なぜ行き先を変更し、敵包囲網のただ中にいる頼朝に合流したのか、その理由を『吾妻鏡』はいっさい記述しません。そもそも杉山の戦場から甲斐国を目指したのですから、出発地点に戻ってきたことを「到着」というのは奇妙です。

北条父子が二手に分かれたのはリスク分散のためだとしたら、杉山から甲斐国を目指す行動は相当な危険が伴ったと思われます。実際に、宗時は伊東軍に討たれました。湯坂路にもまた、落ち武者を殺そうと待ち構える敵に行く手を阻まれたので、不本意ながら杉山に引き返してきたと考えるのが自然に思われますが、『吾妻鏡』はそうした読者の勘ぐりをはぐらかすような逸話を挿入します。

箱根山の別当である行実は河内源氏の為義(頼朝の祖父)、義朝(頼朝の実父)と親交があり、石橋山合戦に敗れた頼朝をかくまうことにし、弟の僧、永実に食事を持たせ、頼朝の所在を尋ねさせました。その途上、時政に行き会った永実は頼朝の所在を尋ねたところ、時政は永実を平家方のスパイと疑い「将(頼朝)はまだ景親の包囲から逃れられておりません」と白を切ります。

自分は大将を置いて逃げ出してきた、大将は敵の攻撃にさらされもう生きていないだろうとほのめかし、頼朝が近くに潜んでいることを悟られないよう嘘をついたのです。それを見抜いた永実は「もしやあなたは私のあさはかな考えをお試しになっているのでしょうか。もし(頼朝が)亡くなっていらっしゃるのであれば、あなたは生きていらっしゃらないでしょう」と答えます。

頼朝を平家方に売るつもりではないかと疑われたのは心外だと訴えた永実は、続けて頼朝に忠誠を捧げる時政が主君を捨てて逃げ出すはずはないと断言します。時政の忠誠心を印象づけようとする逸話ですが、いかにも後世の編者が永実の口を借り、そのように語らせた空言だと勘ぐりたくなります。なにせ、北条父子は頼朝と別行動を取っていたのですから、その間に頼朝が敵に討たれていたとしても不思議ではありません。

「これを聞いて時政は大いに笑い、永実を連れて頼朝の御前に参上された」と『吾妻鏡』は続けます。「その食事は、全員が餓えていた時だったので、千金に値したという」。別行動を取っていた時政は、どうして頼朝の隠れ場所を知っていたのかという疑問はさておき、めでたく主君の身辺を警護する本来の任務に戻れた北条父子でしたが、事はそう単純には運びません。

(公開日:2023-03-18)