再び、北条父子の不可解な行動

八月二十四日夜、頼朝らは永実の案内で「密かに箱根山に到着」し、永実宅に宿します。箱根山とは現在の箱根神社で、永実は自分の暮らす宿坊へ頼朝一行を招いたと思われます。

しかし安息できたのも束の間、箱根山には山木兼隆(頼朝に誅殺された伊豆国目代)の祈祷師だった僧も暮らしており、頼朝が潜んでいることに気付くと、直ちに追っ手を差し向けます。頼朝は土肥実平と永実に伴われ、翌二十五日に「箱根路を経て土肥郷へ向かわれた」。

この緊迫した状況の中、またしても時政は「これまでの事情を源氏に伝えるために甲斐国へと向かった」とあります。先に戦場で頼朝とちりぢりになった折とは異なり、この時には頼朝との合意に基づいて甲斐国に向かったと判断してよいでしょう。永実宅に一泊する間、頼朝と時政は今後の戦い方をとことん語り合い、当初の計画とは大幅に食い違ってしまった現実を冷静に分析し、あるべき今後を組み立てるための軌道修正を図っていたはずです。

しかし、ここでの甲斐国行きが頼朝との合意のうえであったとしても、前日の甲斐国行きは混乱を極めた戦闘中での判断ですから、時政の独断であった可能性は捨てきれません。他の武将(景員、光員、景廉ら)が時政の甲斐国行きを知ったうえで同行を求めたらしいことはどう考えたらよいでしょうか。後に光員と景廉は甲斐国に近い富士山麓へ逃れたという記載もあります。

もし頼朝軍全体に甲斐国行きが作戦行動のひとつとして認識されていたのなら、なぜ頼朝自身は一度も甲斐国を目指そうとしなかったのか、甲斐国をめぐる謎は深まるばかりです。

時政は行実と同宿の南光房に付き添われ「山伏の通る路を経て甲斐の国に向かわれた」のですが、ここでも途中で引き返し、頼朝を追って土肥へ向かったとあります。

その理由として『吾妻鏡』は「頼朝の到着する場所を見定めなければ、源氏の軍勢を集めようとしても彼らはやって来ないだろう」と思案したのだと語ります。後に鎌倉幕府の有力御家人である比企能員や畠山重忠を滅ぼし、強大な権力を握ったほど策に長けた時政が、この程度のことを出発前に思い至らなかったとは到底考えられません。ここでも敵に行く手を阻まれたので、仕方なく引き返したと考えてよいでしょう。

そして翌々日の二十七日、時政と義時は、岡崎四郎義実や近藤七国平らと土肥郷から船で安房国へ渡りました。さらにその翌日、頼朝も土肥の真鶴崎から船で安房国へ向かい、二十九日に頼朝と時政らは安房国猟島でめでたく再会を果たしました。

この後、周知のように上総、千葉、秩父といった関東の有力武将がこぞって頼朝の下に参上し、一大軍事勢力を集結させた頼朝は、鎌倉に館を構え、平家打倒と武士政権樹立に向けて着々と前進するのですが、まだ解決すべき謎は残されたままですので、いったん時間を巻き戻す必要があります。

まず「平家打倒軍の大将は誰なのか」について、山木兼隆襲撃の場面に立ち返り、詳しく検討していきましょう。

(公開日:2023-03-24)