目代を討つ理由は何だったのか

源頼朝が挙兵に向け具体的な行動を起こしたのは、治承四年六月二十四日だと『吾妻鏡』は伝えます。「平氏を追討する計略」は着々と進み、八月四日には最初の攻撃目標を伊豆国目代にして平家の威勢を借る山木判官兼隆に定めます。

散位平兼隆〔元検非違使尉で、山木判官と号していた〕は、伊豆国に流された流人である。父和泉守(平)信兼の訴えによって伊豆国の山木郷に配流され、何年か経つうちに、平相国禅閤(清盛)の権威を借りて、周囲の郡郷に威光を振りかざすようになっていた。これはもともと平家の一族だったからである。そこで、国の敵(平氏)を討つため、そして(頼朝)自身の思いをとげるため、まず手はじめに兼隆を攻め滅ぼすこととした。

「国の敵」とは福原に遷都して安徳天皇を戴く平清盛であり、「自身の思い」とは天皇家への奉仕を認められ、二十年前に剥奪された官位官職を回復することですから、何も兼隆ごときに恨みを持つ必要はないだろうと思われます。

もし頼朝が流人ではなく、かつての父義朝がそうであったように、軍に際して関東の武将をことごとく招集できる立場にあったなら、伊豆国目代などの些事にかまける必要はなかったはずです。しかし裸一貫の頼朝にとって、「自身の思い」だけで軍事行動を起こせない事情がありました。

ここで山木兼隆なる人物の詳細を述べておきます。日本史に一瞬だけ現れ、頼朝によって討ち取られた事跡だけを語られる不運なこの人物は、『吾妻鏡』では「伊豆国に流された流人である」と記述されますが、ここで言う流人とは、頼朝のように大和朝廷に反逆した公の罪で配流されたわけでなく、父である信兼と何らかの争いごとを起こし、あくまで身内の処遇として伊豆国に暮らすよう命じられたにすぎません。

館を構えたのは山木郷(山木兼隆館跡は現在の伊豆の国市韮山山木付近)で、そこから北条時政の館があった守山付近までは、南西方向へ直線距離にして二キロメートルあまりですから、徒歩一時間以内の隣人同士だったといえるでしょう。

いつから兼隆が伊豆国で暮らすようになったのか不明ですが、『吾妻鏡』では「山木郷に配流され、何年か経つうちに」とありますから、治承四年より数年は遡るでしょう。また、『玉葉』の安元三年(治承元年)に兼隆は京にいたと記されるので、治承二年前後でしょうか。

兼隆は罪人ではありませんから、行動制限はないですし、伊豆での暮らしを立てるのに必要な経済基盤(所領)くらいは親から与えられていたと思われます。山木郷に移り住んでからは、所領の経営や領地の拡大といった通常の領主的な活動を行ったでしょう。平家一門であり父親が国守を歴任する実力者でもありますから「周囲の郡郷に威光を振りかざす」のは特別なことではありません。

威光とはつまり郎党による暴力を背景とした収奪であり、そのような違法行為をもみ消すために中央政権とのコネクションを活用するのは、当時の在地領主として一般的な経済活動の範囲内ですから、なにも頼朝から非法をとがめられる行為ではないのです。

そんな小人物を狙った真の理由はいずれ明らかになりますが、まずは山木館襲撃の詳細検討を優先させましょう。

(公開日:2023-04-01)