頼朝とわずかな警固兵を北条館に残し、軍勢は山木郷を目指し夜の闇を突いて出陣します。途中、肥田原という地に着いたところで、時政は馬を止め、佐々木定綱にこう言います。
「兼隆の後見の堤権守信遠が山木の北の方におり、優れた勇士である。兼隆と同時に誅しておかなければ後々の煩いとなろう。佐々木兄弟は信遠を襲撃するように。案内の者を付けよう」。定綱らはこれを了解したという。
山木館を攻撃中に、急報を受けた信遠の援軍に背後から襲われる事態を警戒したのでしょう。しかしこの挿話もまた、いくつもの不審点を抱えています。
繰り返しの指摘となりますが、敵の友軍が至近に居るので両者を同時に叩く必要があることくらいは、事前の軍議において当然の如く議題に上ったはずで、行軍の途中にいきなり思いつくはずはありません。百歩譲って兵を二手に分ける妙案が突然閃いたとしても、この
次に問題となるのは、佐々木四兄弟が素直に時政の命に従ったことです。頼朝との主従関係に依って山木館襲撃に参加した彼らは、時政の命に従う義理などありません。後の石橋山敗走中にも六人の武将が時政の命に従った場面が出てきましたが(「忠臣たちの怪しい振る舞い」)、ここ肥田原は合戦に向かう途中ですので、少し意味合いが違います。
当時の
誰よりも先に敵陣へ突入する行為は最高の栄誉とされ、主君からたっぷりと恩賞を得られました。先陣の誉れに並んで賞されるのは、位の高い敵将の首を取ることです。山木館襲撃は敵の油断を突いての攻撃ですので、先陣争いではなく、兼隆の首を誰が取るかが武者たちの目標だったでしょう。武功を挙げようといきり立って山木館へ駒を進める行軍中、突然お前たちは別の標的へ向かえと命じられたのですから、佐々木四兄弟はさぞ憤慨すると思いきや、あっさり「了解したという」のですから驚きです。
四兄弟の父秀義は、頼朝の祖父為義の養子となり保元の乱、平治の乱に源氏方と参戦したつわもので、河内源氏の忠臣といえるでしょう。いくら頼朝の
頼朝軍の初戦となる山木館襲撃の場面で、時政をめぐるふたつの異なるニュアンスを持った挿話を見てきました。ひとつは軍略のイロハも知らない間抜けな武将として、もうひとつは自軍を思うがままに動かす有能な指揮官として描かれた時政。これをどのように理解したらよいのか検討しましょう。
(公開日:2023-04-09)