北条時政の二面性を読み解く

蛭嶋通りと牛鍬大路をめぐる主張の対立では、時政は戦闘のイロハも解さない道化役として頼朝を引き立て、続く軍勢を二手に分ける戦略では、時政は一転して有能なる指揮官ぶりを発揮します。『吾妻鏡』の時政に関する両極端の描きっぷりは、単に過去のエピソードを拾い集め時系列に沿って記述したら、結果的に一貫性のない内容になってしまった、という編者の怠慢に帰すべき欠陥とは言い切れない、もっと深い理由があったと考えられます。

結論を先に言えば、挙兵直後の史実に関して『吾妻鏡』には伝え残すべき正史の他に、秘すべき裏の歴史があったのです。それはとりもなおさず頼朝と時政それぞれの功績を反映する歴史であり、本来なら時政の行動を正しく反映させた秘史は完全に抹消しておくべきだったのが、頼朝を優れた武将として描く正史のところどころに、なぜか不完全な形でひょっこり顔を出している、と表現できるでしょう。

冒頭の「吾妻鏡の時代背景」で述べたように、『吾妻鏡』の編纂意図は鎌倉幕府の弛緩した主従関係を引き締めることにあったのですから、武家政権を樹立した頼朝への御恩を強く再認識させることで、得宗家(北条家)による独裁政治への不満を緩和させる狙いがあったとすれば、時政の存在感はできるかぎり薄めておきたいわけです。

平家打倒の挙兵から武家政権樹立まで、すべては天皇家の血を引く由緒正しき源氏の嫡流たる頼朝の所業により成し遂げられたとするのが『吾妻鏡』の主張する正史ですから、蛭嶋通りと牛鍬大路のエピソードを持ち出し、頼朝は常に北条家の上位に立つ存在だったと印象づけを行ったのです。

ところが、北条家が主導して編纂した歴史書である以上、時政の功績を完全に隠蔽してしまうのは忍びない、そんな身びいきの情動に流され、時政の有能な指揮官ぶりを挿入することで、いったん道化役に貶めた時政の名誉を回復させたと解釈するのが本記事の主張です。

頼朝の挙兵に従った武将たちが、時政の命令におとなしく従ったとする逸話もまた、本来載せるべきではなかった時政の功績を記す秘史が顔をのぞかせた部分と考えられるでしょう。この仮説に立つならば、少なくとも山木館襲撃から石橋山合戦までの間、時政は頼朝軍と称される軍勢の大将あるいはそれに準ずる地位にあったと評価されるべきです。

頼朝が挙兵を決意した場面に出てくる「国の敵(平氏)を討つため、そして(頼朝)自身の思いをとげるため」に山木兼隆を討つとした奇妙さも、時政が軍大将だったと仮定するならば、すっきり説明できます。挙兵当初に参集した時政をはじめ加藤、宇佐美、天野、工藤など伊豆国に領地を持つ武将にとって、平家打倒に先立ち山木兼隆と堤信遠を討ち取ることは、伊豆国住人としては重要な意味を持ちます。

ではどうして頼朝は彼らのローカルな利害を優先させる軍事行動を許可したのか、というふうに正史に慣れ親しでいると頼朝の視点で考えがちですが、時政が軍大将として頼朝の意思など忖度せずに兵を動かせたと仮定するなら、自分たちがいくさで遠征した際に所領を略奪しかねない敵方を叩いておくのは、至極当然の行動なのです。

頼朝の大望を差し置き、近隣の平家勢力潰しを優先できるほど、時政は強い立場にいたと考えてよいでしょうか。時政という人物について詳しく調べておく必要があります。

(公開日:2023-04-09)