時政と牧の方との婚姻

時政が出世の糸口として掴んだ牧の方の出自について、杉橋隆夫氏の説に沿って紹介しましょう(『静岡県の歴史』第二章 山川出版社)。

当初地方武士の娘と考えられてきた牧の方は、近年になり池禅尼の姪、その子息平頼盛とは従妹であるとする系図が発見されました。池禅尼とは平清盛の父忠盛の後妻で、清盛にとっては継母です。そして平治の乱で捕らわれ、首をはねられるはずだった頼朝の助命を清盛に嘆願した人物こそ、池禅尼その人でした。

牧の方の祖父宗兼は白河法皇の侍臣であり、伯母の宗子(池禅尼)は鳥羽天皇の中宮璋子(待賢門院)につかえて顕仁親王(崇徳天皇)の乳母となった。また姻戚・縁者には、鳥羽・後白河両法皇の寵臣藤原家成・成親父子、後白河側近の高階泰経などがみられ、尼や頼盛をつうじて鹿ヶ谷事件(一一七七年)の中心人物俊寛、そして八条院(鳥羽天皇の娘暲子内親王)の乳母・女房たちと結びつく。要するに牧の方の実家は、院近臣グループの有力な一角を構成していたのである。(前掲書から引用)

無位無官の地方官にして一族の庶流に過ぎない時政は、これほどの良縁をいかにしてたぐり寄せたのか、大いなる謎です。時政と牧の方との婚姻時期について、岡田清一氏は「牧方とは一一七〇年代前半が想定できる」(『北条義時』ミネルヴァ書房)と述べています。頼朝が伊豆国へ流されたのは永暦元年三月(一一六〇年)ですから、牧の方を後妻としたのは頼朝配流から十年以上は後となります。

流人頼朝の監視役は、当初伊東に所領を持つ工藤祐継で、配流先も伊東だったと考えられています。祐継の死後、監視役は異母弟伊東祐親に引き継がれます。祐親は平家に仕え「平家重恩の者」と称され、京で大番役(交替で京都へ出向き皇居を警備する武士のこと)を勤めますが、その留守中に頼朝は祐親の三女と通じ男児をもうけます。帰郷後、これを知った祐親は平家への聞こえをはばかり、男児を殺し、頼朝も殺害しようとします。安元元年(一一七五)九月頃、祐親の次男祐清が「密かに告げてきたので」、頼朝は走湯山へ逃れたと『吾妻鏡』は記します(寿永元年二月十五日条)。

その後、頼朝の監視役を祐親から引き継いだ時政は、北条館の近くにあった蛭ケ小島へ頼朝を住まわせたのでしょう。時政が牧の方を後妻に迎えたのは一一七〇年代前半ですから、その少し後のことと推測できます。

頼朝と政子との婚姻は治承元年(一一七七年)とされます(『曾我物語』)。時政もまた祐親と同様に平家への聞こえをはばかり、ふたりの仲を引き裂こうとしますが、政子の熱意に負けて二人の婚姻を認めます。その辺りの艶っぽい話はさておき、なぜ時政は天下に権勢を誇る平家から咎め立てされる恐れがあったのに、娘と流人の結婚を許したのでしょうか。

そこには時政の豪傑さや政子の強い愛情といった部分とは別に、妻の実家である牧一族の影響力が背景にあったと考えられます。なにしろ、妻は清盛の継母の姪であり、後白河法皇や八条院といった清盛とは一定の距離をとる勢力につながるのですから、流人のひとりを身内に招き入れたくらいで、平家からおとがめを受けはないだろうとの計算があったのでしょう。

清盛の顔色を気にせず振る舞える程の中央政権とのコネクションを持ち、さらに河内源氏の嫡流を婿に迎えた時政は、伊豆国内での存在感を一気に高めることに成功したはずです。それを可能にした牧の方と結婚について、仲介役を担った人物を明らかにしなくてはなりません。

(公開日:2023-04-16)