伊豆国の勢力図と時政の婚活

時政が牧宗親の娘を妻にできた理由を探るため、当時の伊豆国における武将たちの勢力図を確認しましょう。これは時政が頼朝軍の兵に対して指揮官として振る舞えた理由の解明にもつながるはずです。

伊豆国は延喜式で定められた遠流の地で、保元の乱(一一五六年)では頼朝の叔父に当たる為朝が伊豆国大島へ流罪となりました。頼朝が伊豆国へ流罪になる四年前のことです。為朝の身柄を預かったのは「伊豆国大介狩野工藤茂光」(『保元物語』)です。この人物は、石橋山合戦に頼朝軍として子息の親光とともに参戦し、敗走のなか高齢のために「歩くことができなくなって自害した」と『吾妻鏡』に記された工藤介茂光です。

為朝は大島でも濫行を働いたため、茂光は院宣を得て嘉応二年(一一七〇年)国内の武者五百余騎、船二十余艘を率いて大島へ攻め寄せ、為朝を自刃に追い込みます。この時、茂光の招集に応じた武将は伊東、北条、宇佐美、加藤、沢、仁田、天野の名前が挙がります(古活字本『保元物語』)。当時(一一七〇年)伊豆国で最大の勢力を持っていたのは、茂光を惣領とする工藤氏の一族でした。

十二世紀の半ば頃になると、伊豆の工藤氏は、狩野川流域の狩野庄を本領とし国衙の在庁として狩野介とか工藤介を称する狩野氏と、伊豆の東海岸一帯を占める久須美庄(北部の宇佐美庄・中部の伊藤庄・南部の河津庄の総称)を支配下におく伊東氏の二つの流れに大きく分かれていた。(野口実『坂東武士団と鎌倉』戎光祥出版)

当初有力だった国衙系の狩野氏に対し、伊東氏は所領だった久須美庄を平重盛に寄進し主従関係を結び、平氏の隆盛を背景に伊豆国での支配力を強めたと野口氏は指摘します。

国衙系と平家系に割れた勢力圏の中にあって、時政は国衙系の一員として立身を図ったと思われます。もともと北条介を名乗る在庁官人の家系であり、地理的にも北条は狩野氏の支配する狩野平野に在りますから、国衙系人脈に連なるのは自然な流れだったでしょう。

伊豆国の知行国主は、長らく摂津源氏の源頼政が勤めたとされます。知行国とは「皇族・貴族や社寺に特定の国からあがる税収を報酬として与える制度で、知行国を持つ知行国主は、その国の国司の推薦権が与えられた」(伊藤俊一『荘園』中公新書)であり、この制度を利用して頼政は長男の仲綱をたびたび伊豆守に任命しました。

『玉葉』承安二年(一一七二年)七月九日条に頼政が伊豆国の知行国主に就任したとありますが、『兵範記』仁安二年(一一六七年)二月十日条には「伊豆国守仲綱」とありますので、仁安二年にも頼政は伊豆国の知行国主を勤めていて、短い中断をはさんで承安二年に再任されたと考えられます。最初の就任時期については、『平家物語』の「鵺」に、応保年間(一一六一~六三年)に手柄を立てた頼政が、伊豆国の知行国を給わり、子息仲綱を国守にしたとあります。

『源平盛衰記』には、伊豆守仲綱と工藤茂光らは主従関係にあったという記述があります。国衙の最有力者である茂光の下で活動していたと思われる時政もまた、仲綱へ名簿を差し出し主従関係を結んでいたでしょう。伊豆国を統治下におく頼政、仲綱こそ、時政と牧宗親を結ぶ接点だったと考えられます。後ほど詳しく見ていきますが、頼政は八条院に仕える京武者だったのです。

野心に燃える時政は、国守仲綱へ献身的な奉公を行い、その報償として京の中央政界でも重きをなす八条院グループに近い牧宗親の娘との婚姻を実現させたのでしょう。時政の身分からすれば過分の縁談を提供されたのですから、頼政、仲綱にとって時政は、相当役に立つ人物と評価されたと考えられます。

そしてお気づきの方も多いでしょうが、以仁王に平家打倒を進言したのは、頼政、仲綱だったのです。ここに時政が山木館襲撃および石橋山合戦で指揮官のように振る舞った謎を解く鍵が隠されているはずですが、それにはまずは源三位と称された源頼政の生涯を丹念にたどってみる必要がありそうです。

(公開日:2023-04-16)