機転を利かせ困難を乗り切る頼政

義によって以仁王もちひとおうの乱に同意したとされる頼政ですが、その人となりを調べると、どうも違和感しかありません。そこで頼政の性格をよく示す二つのエピソードを『平家物語』と『平治物語』から拾ってみます。

まずは『平家物語』の「御輿振みこしぶり」から。安元三年(一一七七年)四月、山門の大衆(比叡山延暦寺の僧侶)が寺の所領をめぐってたびたび奏聞したけれど聞き入れられないことに憤慨し、強訴ごうそに及びます。

強訴とは、寺の鎮守神の神木や神輿しんよをふりかざして御所へ押し掛け、それでも要求が通らなければ、神木・神輿を放置して帰るという手段をとります。竹内理三氏によれば、「日本の神は、自然の猛威、異常な自然にたいする畏怖心、つまり人間に害を与える自然の猛威をしずめようとするところに信仰心が発生している。(中略)神の意をそこなえば祟りがあると考えた」と指摘します(『日本の歴史6 武士の登場』中公文庫)。放置された神木・神輿を勝手に処分すれば祟りにあうので、要求をのまざるを得ないわけです。この強訴手法は、信仰心の厚い貴族社会に絶大な効果がありました。

山門の大衆は日吉神社の神輿を掲げ、内裏だいりを目指し進行します。治天の君である後白河法皇は、ただちに源平両軍に御所の警固を命じました。平家の重盛は三千余騎の大軍を率い、正面に当たる東側の三つの門を固めます。西と南の門は、同じく平家の宗盛以下多数の武将が守ります。

ところが本来内裏を守護する職にあった頼政が集められた兵力はわずか三百余騎にすぎず、守護すべき北の門は「所はひろし、勢は少し、まばらにこそ見えたりけれ」と、平家に比べてかなり見劣りする有様でした。

これを見た山門の大衆は、守備軍の手薄な北の門へと神輿を進めます。武力で防げば神罰を受ける、かといってみすみす神輿を通過させれば宣旨に背く、進退きわまった頼政は、何を思ったか馬を下り、甲を脱いでうやうやしく神輿を拝みます。そして使者を送り、次のような趣旨の言葉を伝えました。

「あなたたちの要求はもっともで、神輿を入れるのに異存はありません。とはいえ私の陣は無勢です。あえてここから神輿を入れたとなれば、京の口さがない連中から山門の大衆は臆病者だと悪い噂を広められ、後々不名誉な思いをされるでしょう。東の陣は平家の大軍が固めているので、どうぞそちらからお入りください」

これを聞いた山門の雄弁家豪運ごううんは、「頼正卿は武芸のみならず歌道にもすぐれた風雅な男だ、彼に恥辱を与えるのは忍びない」と、神輿を東門に向かわせたと伝えられます。この話自体は平家物語の創作だといわれますが、この八年前に頼政が少勢で大衆の侵入を巧みに防いだ事実があったそうです(上横手雅敬『平家物語の虚構と真実 上』はなわ新書)。

いずれにせよ、困難な局面を知恵と機転でうまく乗り越える頼政の人物像はよく伝わるエピソードです。

(公開日:2023-05-06)