頼政らしからざる振る舞いの謎

平家打倒に燃える以仁王もちひとおうから謀反計画への参加を強く促されたとしても、そこは老獪な頼政ですから、「もう年寄りなのでお役に立てそうにありません」だの、「最近は体の調子が思わしくなく」だのと、のらりくらりとした態度で言葉を左右させ、なんとか以仁王の方から断念するのを待ったでしょう。さらに勘ぐれば、報償を目当てに以仁王に謀反の企てありと清盛に密告したかも知れません。

万が一、頼政が老い痴れて妙な武士の功名心に動かされたとしても、今度は一族の者が黙っていなかったでしょう。老父の乱心を全力で阻止しようと家の者は一致団結して立ちはだかったはずです。

ところが『吾妻鏡』の記述には、頼政は「子息伊豆守仲綱を伴い、一院(後白河)の第二皇子である以仁王がお住まいの、三条高倉の御所に密かに参上した」とあります。

仲綱は孝行息子なので父親の言い付けには逆らえなかったなどという解釈は、この時代の父子関係では考えられません。保元の乱で敵味方に分かれて父為義と戦った義朝は、乱後の処分で実父と弟たちを斬首していますし、同じく清盛は伯父の忠正とその息子たちを斬首しています。こうした例は当時の武家社会では珍しくなく、父子、兄弟、伯父甥といった血族同士であっても、利害が対立すれば殺し合うことも辞さなかったのです。

しかし現実には実子の仲綱に加え養子の兼綱、仲家(源義賢の子息)も父の挙兵に加勢した末に命を落とし、頼政が一代で築いた摂津源氏の繁栄はすべてついえました。

仮に以仁王が清盛打倒に前のめりになっていたとしても、その熱意だけで頼政が挙兵に同意するとは思えない以上、どうしても第三の人物を想定しなければ、頼政のとった一族を破滅させる行動の謎は解けません。

ここで『吾妻鏡』の記述に立ち返り、以仁王の令旨とされる文言を詳しく検討してみましょう。冒頭部分は次のように始まります。

下命する 東海東山北陸三道諸国源氏ならびに群兵等の所に。
 早く、清盛法師およびその従類たち謀反の輩を追討すべきこと。
右のことは、前伊豆守正五位下源朝臣仲綱が命ずる。「最勝王(以仁王)の勅命を承った。(以下略)

初めてこの下りを読んだ時には、頼政が首謀したとされる以仁王の乱の根拠となる令旨を、頼政ではなく子息の仲綱が「承っ」て東国の源氏に下命していることに強い違和感を覚えました。

仲綱は高齢で病持ちの父を補佐する役で同席したに過ぎず、官位にしても三位の父に比べはるかに低い五位ですから、父を差し置いて令旨を受け取る奉者ほうじゃとしてふさわしくないと思われます。奉者とは「主人の意を奉じて侍臣じしんの名で下す文書類を奉書ほうしょと総称し、その場合の侍臣を奉者という」(高橋昌明『都鄙大乱』より引用)です。

あるいは頼政が出家の身だから、令旨を承る役をはばかったのかとも考えましたが、清盛や後白河法皇など、当時の貴族社会では出家後も平然と生臭い政治活動をする例はいくらでもありますから、奉者は頼政であっても不思議ではありません。いや、東国の源氏に下命する役なら、武門源氏最高位に就く源三位の名を使う方がよほど効果的でしょう。

それなのに仲綱が令旨を承ったのには、他に確たる理由があったのかもしれません。少なくとも、仲綱に父の乱心を制止する素振りは見受けられず、むしろ積極的に諸国源氏へ決起を促しているようにも感じられます。この違和感をどのように解消したらよいでしょうか。

(公開日:2023-05-13)