知行国制度と武士の抗争

時の大納言平時忠が「此一門にあらざらむ人は、皆人非人(人なみ以下の者)なるべし」と豪語したとする平家物語の一節はつとに有名ですが、栄華を極めた時期の平家知行国は、「日本秋津島は、わずかに六十六箇国、平家知行の国三十余箇国、既に半国に超えたり」(『平家物語』「吾身栄花」の段)という異常なまでの寡占状況でした。

なお、時忠の言葉とされる右の文言については、高橋昌明氏による従来の解釈への批判を参照してください(高橋昌明『都鄙大乱』)。

国主に絶大な経済基盤を与える知行国制度は、一方で国主の代替わり後も一族が相続できると保証されていたわけではありません。当時日本の土地所有者は天皇ただひとりですから、宣旨一枚の紙切れで、たやすく国主は交替させられる、とても不安定な権利だったのです。

平家の知行国が爆発的に増えたのは、以仁王の乱を遡るわずか一年前のこと。治承三年(一一七九年)のクーデターで清盛が大量に解任させた後白河法皇の近臣者から取り上げた知行国を一門に分配した結果だったのです。

この強硬手段を清盛にとらせた原因もまた、知行国の利権にありました。清盛の娘盛子、嫡子重盛が相次いで亡くなると、後白河法皇は重盛の知行国および盛子の管理する領地を公収し、平家一門の経済基盤を削り取ることで、清盛に対する反目を公然と現しました。これに猛反発した清盛は、ついに禁じ手ともいえる軍事行動に走り、報復として多くの知行国を強奪したのです。

かくほどに知行国主の解任は重大な事態を引き起こす危険をはらんでいるのですから、頼政、仲綱の謀反計画には、伊豆国の知行国主にからむ平家からの仕打ちがあったと勘ぐりたくなります。

あくまで想像の域を出ませんが、頼政への従三位叙勲を朝廷に働きかけ平家に従順な老将を歓喜させておきながら、清盛はその代償として、余命わずかな頼政の死後、伊豆国主を平家一門にすげ替える気でいたとしたらどうでしょうか。

清盛は直接この意向を頼政に伝えたりはしないでしょうが、頼政の後任として伊豆国守に予定する時忠(清盛の義兄)へ内々にこの方針を伝えていたとすれば、新たな知行国主内定という吉報に浮かれた時忠の周辺から漏れ出た情報が頼政、仲綱に伝わっていた可能性は考えられます。

頼政一族を従三位叙勲という歓喜の絶頂から、知行国主剥奪という絶望へと突き落とす清盛の冷酷な人事は、仲綱をして平家打倒の挙兵計画に駆り立てさせるのに十分な理由となりますし、自らの出世と引き替えに嫡子の所領を失わせることになった頼政のやるせない怒りも容易に想像できます。

以上の考察から、平家打倒の挙兵を首謀したのは、頼政でもなく、以仁王でもなく、伊豆国の所領を守ろうとした仲綱だったと本記事は主張します。本説に立脚して、あらためて『吾妻鏡』を読み直してみれば、これまで謎に思えてきた事柄に、納得のいく説明を与えられます。

その手はじめとして、以仁王の令旨を最初に受け取った人物について再検討しましょう。

(公開日:2023-05-14)