反乱軍の拠点だった伊豆国

以仁王もちひとおうの令旨を託された行家は、まず自身の生活拠点としていた紀伊国の熊野三山のひとつ新宮に立ち寄ったと考えられます。平治の乱で義朝と共に戦った行家は、その後は新宮別当行範に嫁した姉の鳥居禅尼のもとへ身を寄せ、新宮十郎義盛と名乗って暮らしていたとされます(『平家物語』「源氏揃」の段)。

行家が令旨を受け取ったのが四月九日とすれば、伊豆国北条館に着いた二十七日まで十八日も要しているので、京から直ぐに伊豆へ向かったとは考えられません。当時、鎌倉と京は徒歩で十三から十五日とされますから(榎原雅治『中世の東海道を行く』吉川弘文館)、鎌倉~三島間の二日分を差し引くと、京から伊豆北条館への行程は早ければ十一日となります。

また当時は、伊勢国安濃津(三重県津市)から伊豆、ないし摂津国渡辺津(大阪府大阪市)から紀伊半島を回り熊野灘を経て伊豆へ至る航路があったとされますから(野口実『武門源氏の血脈』中央公論新社)、熊野の水軍を利用できたなら、さらに行程は短縮できたでしょう。なお、安濃津は頼朝が伊豆国へ配流されたルートとされます。

仮に京から伊豆北条館まで徒歩で十一日の行程と仮定すれば、行家は七日もどこかで油を売っていたことになりますが、それは熊野新宮に立ち寄っていたからに違いありません。ちょうど行家が令旨を受け取った四月から五月上旬頃、紀伊国熊野三山(本宮、新宮、那智)では内部抗争が起こり、行家が身を寄せる新宮および那智と、親平家の立場をとる本宮との間で合戦が起こりました。

『平家物語』によれば、本宮を率いる田辺別当湛増は、行家が以仁王の謀反計画に加わったことを漏れ聞き、平家への恩義に報いるため攻撃に及んだとします。ところが本宮は敗北し、湛増はこの件を平家へ通報しました。合戦時、行家はすでに熊野を離れていたようですが、熊野滞在中に重大な機密を平家方へ漏らしてしまう軽率な言動は、後に重大な結果を招きます。行家という武将はその後も源平争乱の折々に顔を出しては事態をひっかき回す奇態な役どころを演じるのですが、それはさておきましょう。

以仁王の令旨を仲綱の構想した軍事作戦の一部と位置づけるなら、仲綱の所領である伊豆国は、反乱軍の東国における司令本部というべき様相を呈していたと考えられます。たびたび国守を勤めた仲綱は、子息有綱を目代として伊豆国に住まわせ、現地での国衙運営に当たらせており、治承四年当時も有綱は伊豆国に居住していました。残念ながら居館の場所は不明ですが、国府の置かれた三島近郊だったと思われます。

伊豆国目代である有綱は、父仲綱が首謀する平家打倒計画の東国における司令長官であったとするなら、以仁王の令旨を真っ先に受け取るべき人物と考えてよいでしょう。そこで本記事では、熊野を発った行家は徒歩ないし船で伊豆国へ向かい、目代有綱館に令旨を届けたと仮定して考察を進めます。

(公開日:2023-05-20)