まさかの司令長官逃亡

伊豆国の有綱ら実働部隊の面々は、事態が最悪の方向へ進んでいることを悟ります。平家打倒計画はなかったことにして、素知らぬ顔でこれまでどおり領地経営を続ける道は閉ざされ、有綱は謀反の輩として断罪、協力した時政ら在地武将たちも縁坐(連帯責任を負って罰せられること)は免れません。

時政たちを失望させる、さらなる事態が出現します。仲綱の始めた乱を現地で指揮してきた有綱は、なんと伊豆国の同志を見捨て、自分ひとり陸奥国へ逃亡してしまうのです。

前述した大庭景親の帰国は、清盛から直々に有綱追討の命を受けてのことでした(『玉葉』治承四年九月十一日条)。頼政、仲綱、兼綱といった摂津源氏が乱を主導したと知った清盛は、東国に残る有綱を強く警戒したのです。有綱が逃亡した正確な日付は不明ですが、景親が帰国したとされる八月二日以前だったと考えられます。

有綱はれっきとした清和源氏の末裔、いわゆる貴種ですから、その身を庇護してくれる支援者を見つけることは可能です。実際に有綱は陸奥国で奥州藤原氏のもとに暮らす源義経の知遇を得て女婿に迎えられました。しかし、一所懸命に生きる時政ら在地武士は、所領を捨て他所へ逃亡する選択はあり得ません。

ではどうするか。彼ら反乱軍の残党たちは、仲綱の遺志を引き継ぎ、自身の領地を死守するため、平家打倒計画を継承する道を選んだと考えられます。頼朝は六月二十四日に挙兵を決意して累代の家人に書状を送ったとされますので、その時点で有綱は逃亡したか、そうする意思を伝えていたはずです。生活の支援を受けていた舅時政が立つと決めた以上、頼朝には陸奥国へ逃亡する選択は残されていなかったのでしょう。

ここでようやく本記事の冒頭で掲げた第一の謎「平家打倒軍の大将は誰なのか」の答えにたどり着きました。仲綱残党軍の後継指揮官に推挙されたのは時政だったのです。打倒計画において中心的な役割を担っていたのに加え、婿である頼朝を担いで「源」といううじを利用すれば、以仁王の令旨に指名された正当な清盛追討者の大義も保てます。

これより伊豆国の仲綱残党軍は、時政が実質的な軍大将として作戦を指揮し、頼朝は名目上の大将に担ぎ上げられた、そう本記事は主張して考察を進めます。

ところで、もしこの場面で頼朝が「吾れこそ大将たらん」と宣言していたら、その後の歴史は『吾妻鏡』が記す正史のように、伊豆国での挙兵は頼朝の主導した軍事行動になっていたでしょう。ところが頼朝は、奥州へ逃亡もせず、源氏累代の家人を召喚する書状を送るなど、残党軍への協力は惜しみませんでしたが、自身が軍大将に立つことはしなかったと考えます。

なぜなら、先に見たように石橋山合戦の敗走中、時政は頼朝の安全を確保できない状況のなか、二度も甲斐国行きを試みました。仲綱の遺志を継ぐ時政の任務は、頼朝の生死にかかわらず、甲斐源氏に合流して清盛を討つことだったのです。

頼朝が軍大将だったなら、杉山の山中で頼朝が討たれた時点で軍事作戦自体は消滅しますが、時政は構わず単独行動を取りましたし、それに同調する武将も現れました。もし頼朝が討たれたとしても、時政たちは毅然として作戦を継続したでしょう。そうした行動を見れば、これが頼朝の始めた軍でない事は明らかです。

以仁王の令旨を受け取った頼朝が伊豆国で挙兵したとする『吾妻鏡』にとっては、当初の指揮官が時政だったという事実は、全力で隠蔽すべき秘史でした。ですから、『吾妻鏡』には当時伊豆国にいたはずの有綱について一切の言及はありません。有綱の存在は信頼できる貴族の日記『玉葉』に記されている確実な史実ですが、『吾妻鏡』にとっては不都合な事実だったのです。この隠蔽工作は、頼朝が当初の指揮官でなかったことを強く示唆します。有綱の在国を無視し、時政の立ち位置を変えることでしか、頼朝の挙兵という虚構は成立しなかったといえるでしょう。

(公開日:2023-06-11)