伊豆国の新たな支配者

治承四年六月二十九日、伊豆国の知行国主は清盛の義弟である平時忠が任命されます。本記事の主張に沿って言えば、当初の予定どおりの人事となります。より正確に言えば、頼政の自然死を待って知行国主交替を予定していたところ、思いもかけず頼政の戦死という事態になりましたが、いずれにせよ既定路線だったことに変わりはありません。むしろ敵失により早期に知行国を手に入れた時忠は大いにほくそ笑んだことでしょう。伊豆守は猶子時兼、目代には伊豆国在住の山木兼隆が、それぞれ任命されました。

吾妻鏡』によれば頼朝の挙兵、本記事の主張によれば仲綱残党軍の挙兵は、最初の標的を伊豆国目代山木兼隆に定めます。先にこの場面を紹介した際に、なぜ頼朝は京の平家を討ち滅ぼすために挙兵したにもかかわらず、伊豆国目代などという小物を相手にして時間と兵力を浪費したのかと疑問を呈しておきましたが、挙兵は仲綱残党軍によると判明した今となれば、彼らが山木館を襲撃したのは至極当然の行動だったと納得いきます。

時政ら在地武士にとり、挙兵の目的は領地を守るためでしたから、主たる敵は福原の清盛ではなく、伊豆国内の平家勢力だったわけです。思惑どおり目代兼隆を討ち滅ぼし、国府から京下りの官人を追い返すことに成功した残党軍は、いったん領地の保全という目的を達成し、できることなら現状を維持したまま事態が沈静化することを願ったでしょう。しかし、平家方からの反撃は不可避です。彼らは否応なしに、平家との全面対決へと駆り立てられました。

もちろん伊豆の残党軍の兵力だけで平家と対峙するには弱体すぎます。そこで頼りにした連合軍の盟友は甲斐源氏でした。ここまでで、ほとんど第二の謎「なぜ北条時政は甲斐国を目指したのか」は解き明かされているのですが、さらに踏み込んで、資料に基づき仲綱残党軍と甲斐源氏の共闘関係を詳細に検討していきます。

(公開日:2023-06-11)