以仁王令旨の発給時期について

ここでいったん本論から離れ、以仁王もちひとおうの令旨がいつどのような状況で発給されたかについて、本記事の所見を述べておきましょう。

吾妻鏡』や『平家物語』に記載される以仁王の令旨は、文書様式や仏法破滅を糾弾する内容などにより、以前は偽文書との指摘もあったようですが、「現在では以仁王令旨、あるいはこれに近い文書が実在したということは学界の共通認識になっている」(川合康『源頼朝』ミネルヴァ書房)とされます。

一方、令旨の発給された時期については、『吾妻鏡』の記す治承四年四月九日(以降、四月令旨)を肯定する説の他に、『愚管抄』を根拠として以仁王が園城寺に身を寄せていた五月十五日から二十五日の間とする(以降、五月令旨)説が併存し、いまだ決着していません。川合氏は前掲書で五月令旨説を唱える河内祥輔氏の見解に賛同し、永井晋氏も『源頼政と木曽義仲』(中公新書)や『八条院の世界』(山川出版社)の中で五月令旨説を支持します。これらに対し、高橋昌明氏は『都鄙大乱』(岩波書店)で、元木泰雄氏は『源頼朝』(中公新書)で、内容や様式はともかく、四月令旨は存在したと論じます。各氏の主張は原本を参照していただくとして、本記事では次の三点から四月令旨説の立場をとります。

第一に指摘したいのは、仮に四月令旨が存在しなかったなら、以仁王は何の証拠に基づいて謀反の罪に問われたのでしょうか。以仁王の謀反計画を察知した平清盛が、多数の武士を引き連れて福原から上洛したのは五月十日でした。そして五日後の十五日夜に公卿議定において以仁王の源以光への改名(臣籍降下)、および土佐国への配流を決定します。元木氏が前掲書で「挙兵・謀叛計画なくして八条院の猶子でもある重要人物に、配流という重罰を科すことはありえない」と指摘されるように、清盛の提出した謀反を示す証拠は、審議に五日間を要したものの、公卿たちを納得させるだけの信憑性があったと考えるべきでしょう。この証拠こそは四月令旨に書かれた謀叛計画だったのです。

この後、以仁王の追補に動員された武士に源頼政の猶子兼綱や頼政自身が含まれていたので、仲綱を奉者とする令旨そのものは平家方に奪取されていなかったでしょうが、『玉葉』の五月十七日条には真偽不明の風説と断りつつ「武者云はく、諸国に散在する源氏の末胤等、多く以て高倉宮の方人となり、又近江国武勇の輩、同じく以てこれに与すと云々」(高橋貞一『訓読玉葉』高科書店)とあるように、以仁王が東国の源氏に挙兵を呼びかけたことは、武士(おそらくは平氏方)に広く認識されていたようです。

第二点として、『愚管抄』は以仁王が園城寺で「宮の命令を伝えるものとして、武士の決起を促す文書を書いて全国各地にばらまかれた」(大隅和雄[訳]『愚管抄 全現代語訳』講談社)としますが、以仁王の置かれていた当時の状況は、平氏からの度重なる身柄引き渡し要求に加え、延暦寺の敵対表明、園城寺内の造反といった危機的状況でしたから、さすがに東国の武士を催促する時間的な余裕があったとは思えません。絶体絶命の状況下、相手構わず書き散らかした文書に東国の源氏が含まれていたとしても、現実的には自身を救出できる物理的な距離内に兵力を有する京武者や在京する源氏諸氏、さらに近江国や畿内各国の源氏諸氏も「決起を促す文書」を送りつけられたに違いありません。

『平家物語』の「源氏揃」には以仁王の令旨に呼応するであろう源氏として、京中には美濃源氏光信の子息である光基・光長・光重・光能、摂津源氏の多田朝実・高頼・頼基、河内国の義基・義兼、大和国の有治・清治・成治・義治、近江国の山木・柏木、錦古里の名前が挙がります。また常陸国の佐竹隆義(義光流源氏)や上野国の新田義重(義国流源氏)は在京していましたから、「決起を促す文書」を受け取った可能性はあります。

以仁王の乱が鎮圧された翌五月二十七日、高倉院御所の議定で乱に加担した者に攻撃を加えると決定されましたが(『吾妻鏡』五月二十七日条)、京中や近国の源氏は誰ひとりとして追討されていません。ところが、六月二日に福原遷都を強行した清盛は、仲綱の子息有綱追討のため私兵の大庭景親を七月下旬に東国へ下向させます。また平宗盛も同じ頃、東国の反乱分子を追討するため私的に新田義重を下向させ(『山塊記』九月七日条)、おそらく駿河国の目代橘遠茂および長田入道も知行国主である宗盛の意を受け、甲斐源氏に対する軍事行動を八月に開始します(詳細は後述)。もし五月令旨の発覚によって諸国源氏の追討令が発動されたとするなら、対象範囲が東国に限定されるのは不自然です。

資料価値の高い『愚管抄』に記された五月令旨の存在は否定しませんが、すでに王家から追放され配流が決定した謀反人が、敗死する直前に逃亡先でヤケクソに書き散らかした「決起を促す文書」を一方的に送りつけられても、本気で同意する武士などいるはずもなく、清盛は五月令旨を受け取ったであろう京武者らを追討対象と見なさなかったのです。では、なぜ東国の源氏に限って追討使を派遣したのかと考えれば、やはり年初から水面下で進行していた平家追討計画を記す四月令旨の内容が漏洩したと想定するしかありません。

最後の論点は、源行家の存在です。永井晋氏は前掲した『八条院の世界』の中で、行家の八条院蔵人への補任と正六位上の叙位は、頼政の推挙によるものだとしても、以仁王挙兵とは無関係の一般的な補任申請を「八条院庁と式部省が通常の事務手続きとしておこなった」とします。しかし八条院の猶子となった以仁王は、清盛から安徳天皇の地位を脅かしかねない存在として危険視されていたわけですから、平治の乱で清盛と直接対決した源義朝の実弟で、縁坐を怖れて熊野新宮に身を隠して暮らす行家を八条院の職員に推挙するのは、平家を刺激しかねない軽率な行為です。世慣れた頼政がそんなリスクを冒すとは思えません。四月令旨の使者という任務を考慮しないとしたら、頼政にとって行家を八条院蔵人に推挙する理由はどこにあったのでしょうか。

東国で源頼朝や木曽義仲が相次いで挙兵した後、行家は治承五年三月に美濃国の墨俣で独自の兵力を率いて平重衡と合戦を行い、ここで敗北した後も、義仲軍に加わり北陸道を転戦し、都落ちした平家に代わって入洛を果たすと、義仲と並んで後白河院御所へ参内する栄誉をつかみました。平家追討の勲功は第一を頼朝、第二を義仲、行家は第三位に甘んじましたが、それでも義仲と対等の従五位下、備後守(後に備前守)、平家没官領九十カ所を獲得します。

四月令旨が存在せず、行家は以仁王の乱とは無関係に八条院蔵人となったのであれば、なぜ墨俣川合戦で、おそらく頼政と関係の深かった美濃源氏を主力とし三河・尾張の源氏方も含む、五千余騎ともされる軍勢を率いることができたのでしょうか。北陸道の激戦から平家都落ち、入洛に到るまで、常に軍を指揮する大将として登場する行家は、もともと私領も私兵も持たず、姉の嫁ぎ先に生活の面倒を見てもらう存在でした。そんなしがない陸奥十郎義盛が、突如として頼朝、義仲と並ぶ源氏の主要な武将となれたのは、やはり四月令旨の存在抜きには考えられません。

行家は頼政、仲綱、以仁王たちと共に平家打倒計画を立ち上げた首謀者のひとりであり、以仁王らが敗死したのちは、その遺志を受け継ぎ平家打倒を推進する筆頭の後継者だと、当時の武士や貴族たちが受け止めたゆえに、行家を大将と仰ぐ軍勢が存在し、頼朝や義仲と並ぶ朝恩を受けられたのです。行家もまた、自身を頼朝や義仲とは最低でも同格、本音を言えば自分の方が上位者だという自負を持っていたと考えられます。義仲や頼朝と激しく対立した理由はそこにあったのです。

ここまでの論点をまとめると、四月令旨は存在し、行家が使者となって東国の源氏に触れ回ったのは史実であり、五月令旨もまた存在したけれど、平家方から危険視されるほどの影響力はなかったとなります。後に二つの令旨は混同され、五月令旨を受け取った頼朝が挙兵したとか、五月令旨に書かれたと思われる仏法破滅を糾弾する内容が『吾妻鏡』や『平家物語』の四月令旨に紛れ込んだりしたのでしょう。以上の考察を以て、本記事では治承四年四月以前に仲綱を首謀者とする平家打倒計画が存在し、それに王家の権威を付与する四月令旨が発給され、行家を使者として東国の源氏諸氏へもたらされたとの前提で記事を書き進めていきます。

(公開日:2023-06-17)