京から見た東国の反乱

以仁王の乱を経て東国で勃発した反平家の軍事行動は、京に暮らす人々にはどのように映っていたのか、貴族の残した日記から推察してみましょう。北条時政を指揮官とする仲綱残党軍が伊豆国で挙兵したことは、九条兼実の日記『玉葉』の治承四年九月三日条に記されます。

謀叛の賊、義朝の子、年来配所伊豆国にあり。而して近日凶悪を事とし、去る比新司の先使を凌礫す(時忠卿知行の国なり)。凡そ伊豆、駿河両国押領し了んぬ。(高橋貞一『訓読玉葉』高科書店より引用)

この記述は「又伝へ聞く」と始まるので、九月三日時点で京の貴族社会で囁かれた風聞を兼実が書き取ったと考えられ、石橋山合戦で反乱軍が敗走した事実は含まれず、駿河国まで押領したとする間違った内容も記されるので、かなりあやふやな情報だったといえます。

反乱の首謀者を義朝の子、すなわち頼朝と断定した噂が当初から流布したことは、頼朝が自ら挙兵したとの誤った認識を貴族社会に植え付ける原因のひとつになったと考えられます。

先に紹介した駿河国の武将長田入道が上総介忠清に宛てた書状には「北条四郎(時政)と比企掃部允かもんのじょうが頼朝を大将軍として叛逆しようとしている」とあり、反乱の首謀者はあくまでも時政一味で、頼朝は名目上の大将に担ぎ出された旗印に過ぎないと理解していたとも読み取れます。

なお比企掃部允はこの時すでに亡くなっていたのですが、この部分は、掃部允の妻比企尼の養子である能員が頼朝に私的に仕えていたこと、さらに流人時代の頼朝には、同じように私的に仕える武者が多く存在したとされるので、長田入道が言いたかったのは「時政と、頼朝に従う武者(掃部允の養子など)が、頼朝を担いで謀叛を企てている」と解釈すれば、長田入道や大庭景親ら東国の武将たちは、反乱の首謀者と頼朝の関係を正しく理解していたと考えられます。ところが京の貴族社会では、北条だの比企の養子だのといった東国の子細な人事情報を聞かされても理解できず、自分たちの記憶に刻み込まれた平治の乱に登場する頼朝の名を東国反乱の代名詞として噂し合ったのでしょう。

頼朝謀反の報は直ちに福原の清盛へ届けられ、翌々日の五日には「頼朝及び与力の輩を追討せしむべし」(『訓読玉葉』治承四年九月十一日条)との宣旨が出され、平家一門の維盛、忠度、知度ら追討軍は九月二十二日に下向すると決定されました。しかし翌六日に飛脚が到来し、石橋山合戦で反乱軍は大庭軍により壊滅させられたとの報が届けられます。

以上は『玉葉』の記述をもとに伊豆国の反乱を見てきましたが、次に『山塊記』に残された同時期の記述を検討します。そこには甲斐源氏にまつわる意外な事実が記されていました。

(公開日:2023-07-11)